もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第118回 続・衝撃の徳興里壁画古墳――北朝鮮再訪C

女主人の牛車、大きなかさの下にいる2人の婦人は、セットンチマ(晴着用の色縞スカート)をはいている。高松塚壁画古墳の婦人像がこれに酷似しているのが興味をひく(朝鮮画報社発行の「朝鮮画報」1979年11月号から)

牽牛と織女―天の川を間に牛をひく牽牛と別れをおしんで涙する織女の姿が見える(朝鮮画報社発行の「朝鮮画報」1979年11月号から)




 一九七八年(昭和五十三年)十一月。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)滞在中に高句麗のトクフンリ(徳興里)壁画古墳の見学を許された私と中井征勝写真部員が、薄暗い古墳内で彩色豊かな壁画に嘆声を上げていると、説明員が「ほれ、これを見てください」と、前室と玄室(奥の部屋)をつなく通路の壁に描かれた絵を指さした。 
 牛車とそれに従う女たちの絵であった。牛の手綱をとる女が二人、牛車の後ろに付き添う女官が二人。そして、その後ろから、一人の女が女官二人に大きな傘をさしかけている。

 それを見た私たちは思わず「アッ」と声をあげた。二人の女官が、赤と黄色のひだのあるスカートをはいていたからである。朝鮮ではセットンチマといい、晴れ着用の色縞スカートだという。それは、なんと一九七二年に日本で発掘されて大反響を引き起こした、あの奈良・明日香村の高松塚古墳の婦人像の衣装とそっくりだった。
 「どうです、高松塚古墳の婦人像とよく似ているでしょう」。説明員は、そう言って、ほほえんだ。そして、続けた。「私たちは、この二つの古墳の著しい共通点から、高松塚の壁画には高句麗古墳壁画の影響がみられると考えています」
 果たして、徳興里と高松塚はつながっているものなのかどうか。つながっているとしたら、いつ、どんな経路で、だれが高句麗古墳壁画の様式と技術を海を隔てた日本の奈良盆地にもたらしたのか。想像の翼は無限に広がる。いずれにしても、二つの古墳の共通点は好奇心をかきたててやまない。

 その後も、四〇ワットの裸電球のかぼそい光のもとでの、私たちの壁画の見学が続いたが、私たちのわきでの説明員の説明もさらに続いた。
 「わが国で、これまでに発掘された壁画のある古墳は七十余です。うち十七は中国領土内にあります。高句麗の首都が、いま中国領内の輯安にあった時代があるからです。七十余の古墳のうち、価値のある壁画のある古墳は五十三、四です」
 「このトクフンリ古墳は一九一〇年以前に二回盗掘にあっています。ですから、今回の発掘でも、棺や装飾品などの遺物は全く見あたりませんでした」

 私たちは古墳壁画については全くの素人であった。それゆえ、徳興里古墳の壁画を見せてもらっても、「なんだかすごいもののようだ」とは思ったものの、正直なところ、どれほど価値があるものかは分からずじまいだった。だから、その本当の価値が分かってきたのは、日本に帰って、専門家の意見を聞いてからである。
 中井写真部員が撮ってきた壁画のカラー写真に目を通した古墳壁画の権威、斎藤忠・大正大学教授(当時)は開口一番、こう言った。「皆さんは、この徳興里古墳壁画を見た一事だけで北朝鮮を訪問した意義がありましたよ」。それほど素晴らしい壁画だというのである。
 斎藤教授は続けた。
 「高句麗古墳壁画は東アジア最大規模のものだが、文字が書かれていたのは非常に珍しい。戦前、満州の輯安で発見された牟頭婁塚、一九四九年に朝鮮の黄海難南道で発見された美川王陵に次いで三つ目だろう。もつとも、『幽州刺吏』の記述をもって高句麗の支配地域が類推されるという点については、もう少し検討してみないと何ともいえない。要は幽州という地域をどう確定するかにあり、また、当時の官職や称号がどうなっていたかを調べてみる必要がある」 
 「それよりも、壁画のテーマに注目したい。流鏑馬や七夕伝説を描いた高句麗古墳壁画は初めてではないか。その七夕の図や、三足のカラスやヒキガエルで表した日月の図などから、高句麗時代は天体信仰が盛んだった、という従来からの通説が裏付けられたように思う。それに、狩猟の図。トラが矢に射抜かれて血を流しているところなどは実に凄惨で、当時の朝鮮の人々の描写力のさえを感じさせる」
 「高松塚古墳との関係だが、高松塚がつくられたのは七世紀後半から八世紀初めにかけてで、その絵は唐の影響を受けているというのが通説になりつつある。徳興里古墳は五世紀初めの築造だから、高松塚とは時間的に開きがありすぎる。直接的な影響はないのではないか。しかし、古代の中国、朝鮮、日本の宮廷衣装に共通点がみられるのは、大変興味深い」
 ともあれ、私たちは東洋文化史の上で大変貴重な遺産を見せてもらったということは確かだった。そして、私たちのような素人にも、朝鮮の古代文化が極めて優れた水準にあったこと、朝鮮と日本の古代文化に共通点があることが理解できたのだった。

 中井写真部員が撮ってきた徳興里古墳壁画の写真と私の見聞記はこの年十一月二十一日付の朝日新聞に掲載された。写真はモノクロだったが、大阪本社版は翌二十二日付の夕刊でカラーの写真を掲載した。
 反響は大きかった。とくに私たちが驚いたのは、このニュースが直ちに韓国に伝えられ、同国内で大ニュースとして報じられたことだった。韓国の人たちは、私たちの報道によって徳興里古墳壁画の存在を初めて知ったのだった。
 同じ民族でありながら、民族の貴重な遺産に関するニュースが日本経由で知らされるという異常さ。これも、民族が南北に分断され、険しい対立関係にあったためだ。私は、朝鮮半島における民族分断の悲劇を改めて痛感せざるをえなかった。東京で発行されている韓国系の新聞「統一日報」も十一月二十二日付紙面で「こんど『北』の高句麗古墳壁画の概要が日本の新聞によって報道されるということは、とりも直さず南北の分断を象徴していることといえる」「韓国古代史の研究には韓日の共同研究はもとより、『北』を含めたそれが望まれているといえよう」と書いた。

 二〇〇四年七月、北朝鮮の「高句麗古墳群」と中国の「高句麗の首都と古墳群」が世界遺産に同時登録された。もちろん、徳興里古墳も含まれていた。
 私たちが、徳興里古墳の壁画を興奮しながら眺めた時から二十六年の歳月が流れていた。「世界遺産登録」のニュースに、私は、私たちに徳興里古墳見学の機会をつくってくれた、北朝鮮対文協のビョン参事の顔を思い浮かべた。その後、どんな生涯をおくられただろうか。

(二〇〇七年七月十八日記)


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