もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第2部 社会部記者の現場から
西山太吉記者の起訴と「本社見解とおわび」を報じた1972年4月15日付毎日新聞夕刊
一九七〇年代にマスコミ界を揺さぶった最大の事件といえば、やはり外務省公電漏洩(ろうえい)事件だろう。
沖縄返還が目前に迫っていた一九七二年(昭和四十七年)三月二十七日、衆院予算委員会で、社会党の横路孝弘代議士(現民主党代議士、衆院副議長)が、沖縄の日本復帰にともない米国政府が沖縄の米軍用地地主に支払う復元補償費(地主側の要求は四百万ドル)の問題を取り上げ、「米国が支払うといっても、その実、政府が米国にその費用を支払うことになっている。政府は米国との間でその密約をかわしている」として、沖縄返還についての愛知揆一外相と米国側との交渉内容を説明した外務省極秘電報のコピーを示して追及した。
米軍が使用した沖縄の軍用地については、沖縄返還協定で、復元補償もれとなる軍用地に関し地主に補償することを約束していた。横路議員らは、沖縄返還協定を審議した、前年暮れの「沖縄国会」で、「その支払いは日本が米国資産の買い取り、核兵器撤去費用として米国に支払うことになっている三億二千万ドルの一部から出されるのではないか。つまり、米国が支払うのが当然の補償費まで日本が負担するのではないか」と質問した。これに対し、福田赳夫外相らは「そういうことはない」と否定、横路議員らの「これについての秘密の取り決めがあるとのうわさがあるが」との追及にも、それを否定していた。
横路議員が予算委員会で示した外務省の極秘電報は、七一年五月二十八日付で愛知外相(当時)から牛場駐米大使にあてたもの。協定案文作成についての愛知・マイヤー駐日米大使会談の内容を説明したもので、横路議員によれば、その中に、米国が支払うべき補償費を日本側が肩代わりすると受け取れる記述があるという。だが、佐藤栄作首相らは密約の存在を改めて否定した。
その後、委員会審議の焦点は外務省極秘電報の真偽に移ったが、同省は調査の結果、電報が本物であることを認めた。しかし、それでも、政府は「密約はなかった」とかたくなに言い続けた。
ところが、事態は意外な方向に展開する。四月四日、外務省の蓮見喜久子事務官が国家公務員法一〇〇条(秘密を守る義務)違反容疑で、毎日新聞政治部の西山太吉記者が同法一一一条(そそのかし行為)違反容疑で、それぞれ逮捕されたからだ。外務省が、横路議員が示した電文のコピーを手がかりに調査した結果、蓮見事務官が西山記者に頼まれて問題の電文のコピーを手渡したことが分かったからである。横路議員が衆院予算委員会で暴露したのは、この電文コピーだった。
西山記者は外務省詰めの毎日新聞記者団のキャップとして、沖縄返還問題の取材にあたっていた。逮捕を受けた毎日新聞社の説明(四月七日付同紙)によれば、同記者は「沖縄返還交渉が大詰めの段階を迎えた昨年(七一年)六月、焦点の一つである対米請求権問題の解明に力を注いだ。とくに復元補償を米側に支払わせると日本側が主張しているのに対し、米政府は絶対に応じないとの態度を堅持していたため、国民の疑惑の目をそらしながら、極秘裏に取決められる恐れがあると懸念して、真相究明に取組んだのである。しかし、外務省当局から、その実態が明らかにされる可能性は皆無であった。西山記者は、取材活動を通じて懇意になった蓮見事務官に、請求権問題についての秘密文書を、ごく短時間見せてほしいと依頼、同事務官は絶対に公表しないことを条件に応諾した」「(西山記者は)ニュース・ソースに対する配慮からも、資料の取扱は慎重を期した。上田政治部長に対して資料の入手を報告したさい、これらの点を指摘し、資料をナマのままで掲載することは差しひかえたいと望み、部長も当然であるとして同意した。しかし、ニュース・ソースへの慎重配慮を加えながら、たとえば六月十八日付紙面に、西山記者の署名入り記事をかかげたさい、請求権問題をめぐる疑惑について間接的表現をとりながら指摘」した。また、西山記者は横路議員と会談し、横路議員は西山記者の見解も取り入れて「沖縄国会」で質問したが、政府は密約の事実はないとの答弁を繰り返した。
「このような経過を通じて、西山記者は……一度は何らかの機会をとらえて、ある程度明らかにされる必要があると考えるようになった。……こうした判断は、一新聞記者として知り得た真実を、国民の前に知らせる義務を負いながら、取材源との関係から、そのまま記事にできないという心理的矛盾を生み、それは国権の最高機関である国会で、解明されるべきたという決意に発展していったものとみられる。西山記者の資料は、三月二十七日午後二時ごろ、横路氏の手元に渡った」という。
国家公務員法の「そそのかし」規定で、新聞記者による報道目的の取材行為が罪に問われたのは初めてのことだった。それだけに、毎日新聞社は「この逮捕は、日常の記者活動の延長と考えられる行為に対する法の不法な適用と受けとめざるを得ない。政治権力の容赦ない介入であり、言論の自由に対する挑戦と解する」と主張し、他の新聞社も、「報道の自由」からして記者の逮捕は認められない、との論陣を張った。
国会でも、社会党議員が「国民は憲法で『知る権利』を保障されている。したがって、「報道の自由」も保障されねばならない。記者が取材したものが政府に都合悪いもので、その出所が公務員だったという場合、国家公務員法違反に問われれば取材の自由が阻害される」と追及したが、佐藤首相は「われわれも知る権利がある。西山記者は司直に話せばいいではないか」と反論、さらに「新聞綱領を守れ」「国家機密を守るため機密保護法は必要」などとエスカレートさせた。つまり、「国民の知る権利」と「官庁の規律」のどちらを優先させるかの大論争となった。それはまた、「報道の自由」と「国家機密」のどちらを優先させるべきかの論争でもあった。
ところが、それまで新聞側に傾いていた世論は一転して、新聞に厳しい目を向けるに至る。東京地検が四月十五日、西山記者と蓮見事務官を国家公務員法違反で起訴したが、起訴状に「西山は蓮見とひそかに情を通じこれを利用して蓮見をして外交関係秘密文書ないしその写しを持出させて記事の取材をしようと企て」「蓮見は西山からのそそのかしに応じ……もって、いずれも職務上知ることのできた秘密を漏らしたものである」とあったからである。
毎日新聞社は同日付夕刊に「本社見解とおわび」を発表。そこには「蓮見、西山両者の関係をもって、知る権利の基本であるニュース取材に制限を加えたり新聞の自由を束縛するような意図があるとすればこれは問題のすりかえと考えざるを得ません。われわれは西山記者の私行についておわびするとともに、同時に、問題の本質を見失うことなく主張すべきは主張する態度にかわりないことを重ねて申述べます」「西山記者は、ニュースソースを秘匿しつつ事実を明らかにすることを意図していたとしながらも、原資料そのものを第三者に提供したことが、結果的には、かえってニュースソースを明らかにすることになりました。この点は、新聞記者のモラルから逸脱したものといわざるをえません。このことは、西山記者の個人的行為であったとはいえ、毎日新聞社は、蓮見さんに多大のご迷惑をかけたことに深くおわびし」とあった。専務取締役・編集主幹、東京本社編集局長の解任も発表した。
これに対し、毎日新聞社には「女性事務官にセックスをしたあげく外交秘密を漏らすようそそのかしたのか」といった抗議が殺到、これを機に部数が減り、同社は経営危機に見舞われる。
その後、東京地裁では蓮見元事務官に懲役六月、執行猶予一年の有罪、西山記者には無罪の判決。が、控訴審では、西山元記者の一審判決が破棄され、懲役四月、執行猶予一年の有罪判決。さらに、一九七八年の最高裁決定で西山元記者の上告は棄却となった。
これで、外務省公電漏洩事件は一応、終止符を打たれた形となった。
しかし、この事件の本質は、沖縄返還交渉の過程で、日米両国政府間で密約があったかどうか、ということに尽きる。民主政治のもとでは、国家の行為はあくまでも「公開」されねばならず、密約など絶対に許されることではない。なのに、権力側は「密約」の開示を迫る記者の取材方法を問題にし、記者と外務省事務官の「親密な関係」に焦点をあてることで、国民の目が事件の本質に向かうのを避けようとしたといっていいだろう。つまり、事件の本筋が、権力側によってすりかえられてしまったのだ。
私の記憶では、当時、この事件に対し、新聞界はこぞって「国民の知る権利」に基づく「報道の自由」を主張したが、新聞界全体としてはなんとなく腰が引けていたような印象をぬぐいきれない。
こんなこともあった。西山記者が逮捕された後、「朝日」社会部でも、逮捕の不当性を主張する識者の談話を紙面に載せるなどして「毎日」を応援したが、ある時、デスクから「あんまり拳を高く振りかざすなよ」と小声でいわれた。
このころ、新聞各社は、すでに西山記者と蓮見事務官の関係を察知し、起訴の段階でこれが表沙汰になれば、新聞は世論の袋だたきにあうだろう、と予測していたようなのだ。ならば、あまり高姿勢で突っ走るのは得策でない。各社はそう見ていたのではないか。そう思えてならない。
もちろん、この事件によって記者のモラル、取材方法、取材源の秘匿といった問題が問われたことは確かだ。当時、私の周辺でも、同僚はみな、そのことを意識し、議論を交わしたことは事実だ。とりわけ、西山記者が取材源を秘匿できなかったことへの批判が強かった。また、電文のコピーをそのまま政府へ渡した横路議員の「うかつさ」を批判する声も強かった。決済欄の印影をそのままにしたコピーだったから、そこから漏洩元が割れたからである。
ともあれ、マスコミ界では、この事件に一応のピリオドが打たれると、それ以降、事件を問題にしたり、語る人がいなくなった。「この事件については語りたくない」。そんな雰囲気がマスコミ界でずっと続いてきたように思う。そんな中で、ただ一人、事件の本質は密約にあるとして、政府を追及し続けてきた人がいた。作家の澤地久枝さんだ。
それにしても、事件は思わぬ展開をたどる。事件から二十八年たった二〇〇〇年五月、朝日新聞が、四〇〇万ドルの米軍用地復元補償費を日本側が肩代わりしたことを裏付ける米公文書が見つかったと報じた。琉球大学の我部部政明教授が米国立公文書館から入手したものだった。政府は、それでも密約を否定したが、事態はさらに動く。当時の沖縄返還交渉の日本側当事者であった吉野文六・元外務省アメリカ局長が、北海道新聞の徃住(とこすみ)嘉文記者の取材に「四〇〇万ドルは日本側が肩代わりした」と密約を認めたのだ。今年(二〇〇六年)二月のことである。西山記者の主張は正しかったのだ。それでもなお、政府は密約を認めようとしない。
西山氏は国を相手取り、二〇〇五年、謝罪と損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こした。
事件はまだ終わっていない。マスコミ界のこれからの対応が注目されるというものだ。
ところで、私が代表運営委員をつとめる市民団体の平和・協同ジャーナリスト基金(PCJF)は、二〇〇二年、テレビ番組『告発〜外務省機密漏洩事件から30年・今語られる真実〜』を制作した琉球朝日放送に第八回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞を贈った。これは、西山氏を登場させて事件について語らせたドキュメンタリーで、土江真樹子ディレクター(当時)の作品だった。彼女は澤地さんの仕事に触発されてこれをつくったのだが、マスコミ界が事件について沈黙を続ける中では、画期的な作品だった。マスコミ人として事件当時もその後も、何もしてこなかった私としては、罪滅ぼしの気持ちもあって、この作品を基金賞選考委員会に強く推奨したのだった。
(二〇〇六年十一月十五日記=第二部完)
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