もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第82回 反戦復帰はならず


沖縄の即時無条件全面返還を要求する革新団体の集会
(1969年8月、那覇市の与儀公園で。筆者撮す)




 沖縄で日本復帰運動が、これに呼応した本土での沖縄返還運動が、一段と熱を帯びるのは一九六七年(昭和四十二年)からである。国民の要求を無視できなくなった佐藤栄作首相が、この年十一月に米国に飛んでジョンソン米大統領と会談、「両三年内に返還時期について合意する」との日米共同声明を発表したからだ。
 この会談と前後して、本土のマスメディアもがぜん、沖縄問題に関する報道に力を注ぐようになった。そんな雰囲気の中で、朝日新聞社が一九六九年春から夏にかけて大量の記者を沖縄に派遣し、記者たちのルポルタージュを『沖縄報告』と題して一〇〇回にわたって連載したことはすでに述べた。私もその一員として沖縄に一カ月滞在し、沖縄の実情の一端に触れることができた。
 沖縄での取材を終えて東京本社社会部に戻った私は、その後も沖縄問題をフォローし続けた。本土での沖縄返還運動は、民主団体担当である私の取材対象の一つだったからである。そのため、その後も、私はたびたび沖縄へ出かけていった。本土で沖縄返還運動を進める革新団体が沖縄で大会や集会を開くことがあったからだ。
 それに、正直に白状すると、『沖縄報告』の取材を通じて、沖縄の魅力にすっかりとりつかれてしまったということもあった。要するに“沖縄病”にかかってしまったのだ。当時、一部新聞記者の間では、沖縄の魅力に首ったけになった者を「沖縄病にかかった」と表現することがあったが、私もまたその病にかかったというわけだった。というわけで「沖縄の地をまたぜひ踏みたい」という抑えがたい渇望から、私は、さまざまな出張理由を会社に告げて、沖縄に出かけていったのだった。
 
 ところで、沖縄現地での日本復帰運動、それに連動した本土の沖縄返還運動は、一九六九年秋から、一段と激しさを増していった。なぜなら、沖縄返還をめぐる日米両政府の交渉が進むにつれて、返還の内実が明らかになってきたからである。
 すでに紹介したように、復帰協(沖縄県祖国復帰協議会)が求めていたのは「即時無条件全面返還」であった。つまり、施政権の日本返還にあたっては、何ら条件をつけることなく、全面的かつ直ちに返還すべきだ、というものだった。具体的には、沖縄にある米軍基地をすべて撤去し、核兵器も引き揚げよ、という要求であった。復帰協の幹部はこうした復帰のありようを「反戦復帰」と呼んだ。
 しかし、日米両国政府が考える返還のありようが、次第に明確になってきた。それは「核抜き・本土なみ」というものだった。つまり、沖縄の施政権が米国から日本に返還されるにあたっては、沖縄に配備されている核兵器は撤去する、ただし返還後の沖縄にも日米安保条約を適用する、というものだった。日米安保条約は、日本が米国に基地を提供することを取り決めた条約だ。したがって、沖縄の米軍基地は引き続き存続されるというものだった。
 「米軍基地の重圧から逃れるために日本復帰の道を選んだのに、米軍基地はそのままとは」。沖縄の人たちの落胆と憤激は大きかった。こうして、あくまでも「即時無条件全面返還」の実現を目指す運動が一層強まった。

 同年十一月、佐藤栄作首相の訪米が発表された。米国のニクソン大統領と会談し、沖縄返還についての合意をとりつけるための訪米だ。
 こうした事態を迎え、日本政府が目指す「核抜き・本土なみ」返還に反対する復帰協は十一月十三日、那覇市、平良、石垣の三市で「核付き・基地自由使用返還をたくらむ佐藤訪米反対・一切の軍事基地撤去・安保廃棄・11・13県民総決起大会」を開いた。主催者によると、約十万人が集まった。
 本土では、同月十六日、社会党・総評系団体が全国各地で佐藤首相訪米抗議集会を開いた。主催者によると、約百二十カ所の主要都市に七十二万人が集まったという(警察庁調べでは、社会党・総評系以外のものも含め全国二百十カ所に計十二万人)。
 東京では、代々木公園で開かれた社会党・総評系の集会に約七万人(警視庁調べは四万二千人)が集まった。一方、「佐藤首相訪米の実力阻止」を掲げる反代々木系学生、反戦青年委員会の労働者らはこの日夕刻から、国電、京浜急行の蒲田駅、品川駅周辺で交番襲撃、バス奪取、バリケードづくりなどのゲリラ活動を展開し、国電や京浜急行が一時ストップするなどの混乱が続いた。いたるところで、学生、労働者らと警備の機動隊が衝突。蒲田駅周辺では学生側が大量の火炎びんを投げ、駅前の路上は火の海と化した。
 このゲリラ活動で千六百四十人が逮捕された。学生、労働者、警官、市民らのけが人は七十七人にのぼった。
 私は、蒲田駅前で取材にあたっていたが、火炎びんが火を噴くたびに、近くの商店街のある店舗に逃げ込んだ。機動隊が発射した催涙ガスが店内にも流れ込んできて、目とのどがひりひりする。と、横を見ると、小柄で、眼鏡をかけた白髪の外国人がいた。カメラを手にしている。やはり、火炎びんや催涙ガスを避けてきたようだ。報道関係者らしい。で、言葉を交わすと、なんと、ロベール・ギラン氏だった。国際的に著名なフランス人ジャーナリストで、この時は「ル・モンド」の東京特派員。一九〇八年の生まれというから、この時、六十歳か六十一歳だったはず。還暦を過ぎてもなお最前線の「現場」で取材にあたる老骨のジャーナリストに、私は真のジャーナリストの姿を見た思いだった。
 
 抗議の声の中、佐藤首相は十一月十七日、米国へ出発、ワシントンでニクソン大統領との会談に臨んだ。そして、二十二日、日米共同声明が発表された。
 それは「両者は、日本を含む極東の安全をそこなうことなく沖縄の日本への早期復帰を達成するための具体的な取り決めに関し、両国政府が直ちに協議に入ることに合意した。さらに、両者は一九七二年中に沖縄の復帰を達成するよう、協議を促進すべきことに合意した」とうたう一方、「総理大臣と大統領は、施政権返還にあたっては、日米安保条約及びこれに関連する諸取り決めが変更なしに沖縄に適用されることに意見の一致をみた」としていた。さらにまた、声明は「総理大臣は、核兵器に対する日本国民の特殊な感情及びこれを背景とする日本政府の政策について詳細に説明した。これに対し、大統領は、深い理解を示し、日米安保条約の事前協議制度に関する米国政府の立場を害することなく、沖縄の返還を、右の日本政府の政策に背馳(はいち)しないよう実施する旨を総理大臣に確約した」と述べていた。
 この声明により、日本政府は、政府が目指してきた沖縄の「核抜き・本土なみ」返還が達成される、とした。が、沖縄の米軍基地が引き続き存続することが決まったのだった。
 
 これに対し、沖縄ではなお日米共同声明に反対し、「即時無条件全面返還」を求める運動が続いた。この間、一九七〇年十二月二十日未明には、コザ市(現沖縄市)で、数千人から一万人の群衆が米軍人らの車両八十二台に放火する騒ぎ(コザ暴動)が起こり、内外に衝撃を与える。
 しかし、日米共同声明に基づき、日米両国政府により沖縄返還協定が作成され、一九七一年六月十七日、東京とワシントンで調印式が行われた。協定第一条には「米国はサンフランシスコ平和条約でゆだねられた沖縄の施政権を放棄し、日本がこれを引き受ける」、第二条には「日米安保条約など日米間の条約は、そのまま沖縄に適用される」とあった。
 東京の首相官邸で行われた調印式には、沖縄の屋良朝苗・琉球政府主席も招かれた。しかし、屋良主席は「県民の立場からみた場合、わたしは協定の内容には満足するものではない」として、出席しなかった。沖縄住民の代表がいない返還協定の調印式。そのことに、沖縄の人たちが返還協定をどう受け止めたかが端的に示されていた。 
 私は、この日、那覇市にいた。沖縄の人たちがこの歴史的な日をどう迎えたかをこの目で確かめたかったからである。早朝から、那覇市随一の繁華街、国際通りを歩いてみたが、人通りはまばらで、街には祝賀気分はなかった。いつもと違った風景といえば、ところどころに日の丸が掲げられていたくらいか。むしろ、街の空気は重く沈んでいるように思われた。 

 沖縄返還協定は、この年秋の国会に提出された。沖縄の復帰協は協定の批准に反対して、十一月十日、那覇市で県民大会を開いた。米軍基地で働く労働者の組合、全沖縄軍労働組合(全軍労)は二十四時間ストを決行した。
 が、自民党は同月十七日、沖縄返還協定特別委員会で、社会、共産両党の反対を押し切って返還協定を強行採決した。これに対し、同二十日には、総評・中立労連系の四十四単産二百万人が抗議ストをおこなったが、自民党は同二十四日、衆議院本会議を議長職権で開会し、社会、共産両党欠席のまま返還協定を承認してしまった。
 かくして、日本復帰という望みはかなえられたものの、「平和の島・沖縄」を実現したいという沖縄の人たちの長年にわたる願いはついに実ることなく、一応の終息を迎えたのだった。

(二〇〇六年六月二十一日記)






トップへ
戻る
前へ
次へ