もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第71回 出張先で十勝沖地震に遭う


十勝沖地震の被害を伝える1968年5月16日付の朝日新聞夕刊社会面。
左端に筆者の原稿「私は見た その瞬間」が載っている。




 羽田、佐世保、王子、成田、新宿……と、一九六七年(昭和四十二年)から六八年にか け、私は民主団体担当として、ベトナム反戦、沖縄返還、日米安保条約廃棄といった要求を 掲げて展開された大衆運動の取材に明け暮れたが、社会部記者としては、そうした政治的 な課題だけを追っかけておればいい、というわけではなかった。事件、事故が起きれば、即 座に対応しなければならなかった。

 一九六八年五月十六日。私は青森駅から、午前八時五十分発上野行きの東北本線急行 「三陸」に乗った。青森県南地方の三沢市に向かうためで、そこでは、参院選用の企画記事 を取材する予定だった。
 この年、七月に第八回参院選挙が予定されていた。そこで、社会部は社会面で参院選挙 に向けての続き物を掲載することになった。遊軍で話し合った結果、有権者に政治のあり方 について考えてもらうための材料、つまり政治的に解決を迫られている諸問題を現地ルポに よって提供しようということになった。
 私は、東北の農業問題を取り上げたい、と思った。入社して最初に赴任したのが岩手県。 そこで仕事をするうち、農業に対する政治の貧困を痛感していたからだ。とりわけ、政府の 農業政策がしょっちゅうくるくる変わるため、そのあおりをくう農民から「農政はネコの目農政 だ」という嘆きを聞いていたからである。
 結局、青森県南地方の「ビート問題」を取り上げることにした。ビートとは別名砂糖ダイコン で、砂糖の原料。東北の畑作地帯向けの換金作物として政府が農家に栽培を奨励したが、 糖価の下落で売れなくなり、収穫したビートは畑に捨てられた。農民には借金だけが残った ――そう伝えられる実態を、現地で取材しようと思い立った。
 五月十五日、青森に一泊。翌朝、ビート問題の中心地とされる三沢に向かった。

 乗車後一時間ほどした午前九時五十分ごろたったろうか。列車が野辺地駅を出て間もな く、突然グラグラときた。前後左右に激しく揺れ、列車が何かに乗り上げたような強烈なショッ クに見舞われた。手すりにしがみつく者、立ち上がる者、窓から逃げ出そうとする者など、列 車内は大混乱に陥った。子どもの悲鳴が聞こえ、網ダナから荷物がころげ落ちた。
 いったい何が起きたのかわからなかった。窓から外を見と、電線が波打つように揺れてい る。電柱がグラグラ揺れ、田んぼの水がゆっくり傾いて揺れている。初めて地震とわかった。 震動は長く続いた。揺れがおさまったころ、多くの乗客が列車外に飛び出した。まだ地面が 揺れている。列車は止ったままだ。
 間もなく車掌から「列車の前後のレールが曲ってしまい、列車は動けません。前方の鉄橋 も落ちました」とアナウンスがあった。「いつ動き出すのか見通しはつきません」との説明に、 乗客たちは線路伝いに野辺地駅へ向かって歩き出した。私も、それに従った。
 野辺地駅構内では、線路がいたるところで曲りくねったり、ポイントが故障していた。線路 は数メートルにわたって陥没、線路わきの水道管が破裂して水が噴水のように噴き上げて いる。駅員も何から手をつけてよいのかわからない、といった表情。ある駅員は「曲がった線 路を取り替えなくっちゃ列車は走れない。開通はいつになるかなあ」と、ぼうぜんと線路を見 つめている。
 駅舎の被害もひどい。待合室の窓ガラスもほとんど割れている。売店も商品が散乱して、 まるでトラックに突込まれたよう。駅前商店街は軒並みショーウインドーの窓ガラスが割れて いる。ブロックべいは倒れ、道路に亀裂が生じている。酒屋では、一升ビンやビールビンが 割れ、床は酒びたし。印刷屋では活字がタナからくずれ落ちている。石屋では、石塔が横倒 し。道路ぎわの照明灯も傾いている。一般の民家でも、茶わんなどがタナから転げ落ちてい る。
 間もなく駅前商店街の一角から火の手が上がった。商店一軒を半焼で消しとめたが、グラ グラときたとき暖房器具が倒れ、燃え広がったらしい。

 「ひどい被害だ」。私はこの時、どこか遠くで大地震が起き、その余波がこのあたりにも及 んできたのだろう、と思った。いずれにせよ、早く本社と連絡をとり、指示を仰がなくては。 で、電話はないかと捜したが、すべて不通となっていた。携帯電話などない時代だ。「こうな れば、最寄りの支局にたどりつく以外にない」。そう考えた私は駅前で車を捜した。ようやく一 台のタクシーが通りかかった。「青森まで急いでやってくれ」。聞けば、四十数キロの距離とい う。
 青森に向かう国道を運転手は飛ばしに飛ばしたが、いたるところに大きな亀裂ができてい た。車はそのたびに徐行運転を余儀なくされた。国道わきの東北本線の道床もいたるところ で崩れていた。沿線では、住民が数人ずつひとかたまりになって海の方をながめている。み るからに不安な顔つきだ。

 青森支局に着いたのは正午近く。支局では、田中守義支局長と支局員一人が殺到する電 話の応対に追われていた。支局員の大半はすでに被災地に散っていた。田中支局長による と、地震の震源地は十勝沖で、とくに被害が多いのは青森県の八戸から、三沢、野辺地に かけての県南地方と、北海道の道南地方らしいという。なんと、私は、被害が最も多かった 地域にいて地震に遭遇したのだった。
 社会部に「地震に遭いました」と報告すると、デスクが叫んだ。「すぐ原稿を送れ」。私は急 いで原稿用紙に向かった。見たままを書いた私の地震体験記は夕刊に間に合った。社会面 に五段扱いで載った。「私は見た その瞬間」「すごい揺れ、悲鳴」「急行『三陸』列車内は大 混乱」の三本見出しで。

 もうビート問題の取材どころでない。青森支局の地震被害取材を手伝うことにした。被害が 最も多いのは八戸市らしいというので、同市へ向かった。そこにはすでに支局からの先発隊 が到着していて取材を始めていた。八戸には通信局があり、記者一人が駐在していたが、そ こは狭いうえに余震が来ると危ないということで、私たちは小学校の教室を借りて「朝日」の 前線本部とした。
 同夜は前線本部で夜を明かしたが、絶え間なく余震があり、グラグラと来るたびに、私たち はあわてて机の下にもぐりこんだ。天井が落ちてくるとやばい、と思ったからだ。ほとんど眠 れなかった。余震の怖さと不気味さとことん味わった。

 この地震の震源地は襟裳岬南南東約百二十キロ、深度約四十キロで、地震の規模はマグ ニチュード七・八。関東大震災に匹敵するとされた。被害は青森、北海道を中心に死者四十 五人、行方不明五人、家屋の全半壊一万三千二百棟、山ぐずれ四十五カ所、道路の損壊 二百七十六カ所にのぼった。気象庁により「十勝沖地震」と命名された。

 地震の被災地に偶然居合わせて、地震体験記をいち早く送ることができたのは、新聞記 者として「幸運」だったと思う。が、悔いも残った。原稿を社会部に送り終わった時、デスクが こう言ったからだ。「おい、写真は撮ったか」。残念ながら、私はカメラを携行していなかった。 このため、決定的瞬間を撮り損ねた。あの時カメラを携行していたら、生々しい被災写真で 夕刊を飾ることができたものを、との悔いが残った。
 この時の反省から、私は以後、出張の際はもちろん、通勤の行き帰りにもカバンに私用の カメラをしのばせて、万一の場合に備えた。しかし、事件や事故の現場に遭遇することはつ いになかった。そこで、数年でまたカメラ不携行にもどってしまった。
 でも、新聞記者はやはり、常時カメラを携行することが望ましい、と考える。もっとも、それ は、もうすでに実現していると言っていいかもしれない。いまや、だれもが携帯電話を携行し ているのだから。

 ビート問題取材のてん末も報告しておきたい。地震被害の取材を終えて東京に戻った私は 再び青森にとってかえし、三沢でビート問題を取材した。その結果は、この年六月一日から 社会面で始まった参院選向け企画『動かせ政治』の最終回として掲載された。「にがいビー ト」というタイトルで。
 この時の取材で世話になったのが「朝日」三沢駐在の戸羽真一記者だった。戸羽記者は その後、ミステリー作家・日下圭介として江戸川乱歩賞、日本推理作家協会賞を受賞し、脚 光を浴びる。その戸羽氏の訃報がさる二月十三日付の各紙に載り、驚いた。六十六歳で病 死とのことだった。私は、三沢で会った時の、寡黙でひょうひょうとしていた一人住まいの戸 羽氏の風貌を思い出し、その早世を悼んだ。  (二〇〇六年三月十四日記)                             





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