もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第2部 社会部記者の現場から
隠れ家で食事をする脱走米兵(写真左)。即興でギターを弾いてくれた(同右)
=1970年3月19日
「特ダネを書きたい」。新聞記者なら、だれでもそう思う。私もそうだった。世間が関心を示
す事件や問題が発生した時にはとくにそう思ったものだ。
「脱走米兵にインタビューしてみたい」。
一九六七年(昭和四十二年)十一月十三日、べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)から、
横須賀に入港中だったベトナム作戦従事中の米空母イントレピッドから航空兵四人がベトナ
ム戦争に反対して集団脱走した、との発表があり、世間に衝撃を与えた。四人はその後、ソ
連の首都モスクワのテレビに姿を現し、十二月にはそろって北欧のスウェーデンに入国し
た。
騒ぎはそれだけにとどまらなかった。日本に休暇で滞在中のベトナム帰還米兵が次々と脱
走したのだ。そのたびに、べ平連によってその事実が公表された。べ平連が、米兵たちに積
極的に軍離脱をうながし、脱走してきた米兵をかくまい、海外に脱出させているのは明らか
だった。
米軍や日本の警備当局もこれには神経をとがらせるに至ったようだ。元べ平連事務局長
の吉川勇一氏によると、一九六八年の暮れ、米軍のスパイが脱走兵だといってベ平連関係
者に接触してきた。この人物の密告から、脱走兵を乗せた車を運転していた青年が北海道
で逮捕されたり、関連してべ平連の仲間がピストル不法所持という虚偽の容疑で家宅捜査を
受けたりしたという。
脱走兵の続出に私の中の「特ダネ意識」が頭をもたげた。「一度、脱走兵にじかにインタビ
ューしてみたい」
一九七〇年三月、吉川事務局長にその旨を伝えた。すると、「JATEC(米反戦脱走兵援
助日本技術委員会)のメンバーに会うように」と一人の人物を紹介された。小中陽太郎氏(作
家)だった。小中氏の自宅を訪ねて希望を伝えると、「わかった。会わせましょう」との返事。
ただ、条件があるという。「脱走兵を会わせるとなると、そのために何人かの人が動かなくて
はならない。経費がかかるから、取材協力費をいただきたい」。高いな、とも思ったが、即座
に私は「払います」と伝えた。
当時、社会部には、社外連絡費というのがあった。取材上の必要から取材相手に経費なり
謝礼を払う場合は、この社外連絡費が充てられていた。ただし、事前に上司の承認を得る必
要があった。しかし、いったん会社に戻って承認を得る時間もないし、それではなんともかっ
こう悪い。で、私は独断で約束した。会社に戻って上司に報告すると、上司は「高い。値切っ
てこい」という。しかし、すでに約束してきたことだから、いまさらまけてくれとは言えないし、ど
うしてもやりたかった。私は、上司が認めた額に自分のポケットマネーを上乗せして支払っ
た。
小中氏から「三月十八日夜七時三十分に赤坂のTBS本社近くの喫茶店まで来てほしい」と
の連絡があった。私たちはそこへ行った。私たちは二人だった。連れ合いは当時、社会部の
同僚だった伊藤正孝記者(その後、アフリカ支局長、朝日ジャーナル編集長などを経て編集
委員。故人)。私は語学がだめだったから、英語のできる伊藤記者に助っ人として同行してく
れるよう頼んだのだ。
定刻きっかりに若い男性が現れた。、私たちはそこから車に乗った。車は大都会の闇の中
を走り出したが、南西の方角だ。男性は無言。ひっきりなしにタバコを吸った。時折、後ろを
振り向いては目をこらす。尾行が気になるのだろうか。
車は二時間以上走り続けて、広い道路ぞいのごく普通の木造二階建ての民家の前にとま
った。東京都下の町田市の住宅地だった。
屋内には明るい電灯が輝く。が、窓という窓には厚いカーテンがかかっていた。応接室に
外国人が一人。紺のセーターにネズミ色の背広と黒いズボン。赤茶けたボサボサ髪に長く伸
びたあごひげ。黒縁の眼鏡の奥から、薄茶色の目がのぞいていた。「米国西部の生まれ。農
場主の長男で二十二歳」と名乗った。背広のポケットから取り出したIDカードには、米陸軍の
四等特技兵とあった。
彼が語ったところによると、大学に在学中に徴兵を受け、一九六九年六月、衛生兵として
南ベトナムに派遣された。まもなく、戦闘で右足に負傷し、神奈川県座間市の米陸軍病院に
入院。全治後、同病院に衛生兵として勤務していたが、同年暮れに脱走、病院近くの日本人
女性のアパートにひそんでいた。一度MPと日本人警官に踏み込まれたが、押入に隠れて
逮捕を免れた。その後、JATECのメンバーの訪問を受けたという。
それ以後は、学生、広告業者、教師などの日本人家庭を転々とし、いまの隠れ家が十一
軒目。隠れ家から隠れ家への移動は車か電車。JATECのメンバーがつきそってくれる。
「脱走の動機は?」との問いには「以前から政府のベトナム政策には疑問を感じていたが、
ベトナムで同僚の悲惨な死を見、自分も負傷してみて、あらゆる戦争がいやになった」と語っ
た。
私たちは三日間にわたってこの米兵と生活をともにしたが、米兵は暇をもてあましていた。
朝起きて夜寝るまで、ほとんど応接室のソファに腰を沈めたままだった。「彼専用の部屋とし
て書斎を提供したんですが、寝るとき以外は足を踏み入れません。一人でいると不安なので
しょうか」と隠れ家の奥さんは言った。三度の食事は隠れ家の家族といっしょにに食べた。ど
んな日本食も口にしたが、いつも小食だった。運動不足ゆえか。
食事と食事の間は本を読んだり、隠れ家の子どもを相手にトランブに興じたり、ときにはJ
ATECに買ってもらったというギターをかなでながら即興の歌をくちずさんだ。なんとも悲しげ
な歌だった。何もすることがなくなると、放心したような目つきで窓の外をながめていた。
「いま一番やりたいことは」と尋ねたら、「大声で叫びたい」。そして「街の中を思いきり歩き
たい」と付け加えた。「こんな生活をいつまで続ける気なのか」と聞くと、「時々絶望的な気持
ちに襲われる時がある。遠い将来のことは考えていない。いまは、とにかく平和な日本で暮ら
したい」と語った。
三日目の昼前、私たちは、米兵に別れを告げ、隠れ家を離れた。隠れ家の周りには畑が
広がり、路傍にはオオイヌノフグリが淡青色の小さな花をつけていた。戸外はもうすっかり春
の気配。隠れ家に閉じこめられた形の緊張続きの三日間だったせいか、春めいた外の空気
がひどくここち良かったことをいまでも鮮やかに覚えている。
数日後、私は神田の出版社を訪ねて行った。隠れ家の主人の勤め先で、主人に会って感
想を聞くためだった。その人は五人家族だった。妻と三人の子ども。前年から脱走兵を受け
入れており、私たちが会ったのは四人目。一人につき一週間から十日ぐらい。脱走兵受け
入れの動機を尋ねると、笑いながら言った。「昔から窮鳥懐に入れば、という格言もあるじゃ
あありませんか。困っている人があれば助けてやるのが当然」「私だってマイホームづくりに
没頭したいですよ。でも、他人の城を守ってこそ自分の城も守れるのではないか。原爆が落
ちるようなことがあったら、マイホームもパアだからね」。もっとも、不安もあるという。「しか
し、心配しだしたらきりがない。腹をすえなくちゃあ、こんなことはできませんよ」
私の脱走兵インタビューは、三月二十四日付朝刊の「朝日」社会面に載った。トップ記事。
「脱走米兵と暮した3日間」「町を思いきり歩きたい」「転々として十一軒」「戦傷で戦争がイヤ
に」などの見出しと写真つきだった。
JATECには、さまざまな人々がかかわっていた。多くの知識人が関与していたが、一般の
市民も多くかかわっていたようだ。日本人が脱走米兵に便宜を与えても、処罰されることは
ない。だが、刑事特別法によると、米軍は脱走兵の逮捕を日本の警察に要請することがで
き、要請を受けた警察は日本人の住居に立ち入って捜索ができる。さらに、関係者を参考人
としいて取り調べることができ、これを拒めば一万円以下の過料を課されるとされていた。吉
川氏によれば「一九、二〇歳の若者、生身の人間と二四時間、しかも警察の目を逃れてつ
きあうのである。一見、スマートな活動のように思われたかも知れないが、実際は精神も肉
体もズタズタになるような活動であった」(『市民運動の宿題』)のだ。にもかかわらず、こうし
た活動に少なからぬ市民が進んで加わった。
なぜだろうか。おそらく「困っている人があれば助けてやるのが当然」という素朴な人間愛、
すなわちヒューマニズムがこの人たちを突き動かしていたのだろうと思う。加えて、べ平連運
動の論理が、反戦のための実践をうながしていたのではないか。
べ平連が掲げたスローガンの一つに「日本政府は戦争に協力するな」というのがあった。
日本政府は米国のベトナム侵略に加担している。その日本政府を支えているのは日本人で
ある。だから、ベトナムにおける戦争には日本人も責任がある。したがって、日本人一人ひと
りも、日本政府への抗議を含め戦争をやめさせるために自ら行動を起こさなければ――べ
平連の論理はそういうものだったのではと私は思う。
他の平和団体が、この時期、「ベトナム人民支援」を掲げ、運動を専らベトナム人への「援
助」と位置づけていたのと対照的であった。それにひきかえ、べ平連の運動は、人間として個
人の「戦争責任」に向き合った市民の運動だったからこそ、脱走兵援助といった“危険”な活
動にもひるまなかった人々を生み出したのではないか、と私は考える。
ベトナム戦争が終結してから二十六年たった二〇〇一年六月、私は東京・新宿の紀伊国
屋ホールで、斎藤憐作の『お隣りの脱走兵』を観た。JATECによる脱走兵援助をテーマにし
た芝居だった。それを観ながら、脱走兵援助もついに芝居になったのか、との感慨を抱くとと
もに、あのいっしょに暮らした米兵は今、どこで何をしているのだろうかと思った。 (二〇〇
六年一月一六日記)
前回(63回)、タイトルや文中で米空母名を「イントレビット」としましたが、「イントレピッド」と
訂正します。
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