もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第62回 われ炎となりて――あるエスペランチストの抗議


焼身死した由比忠之進さん(比嘉康文氏提供)




 南ベトナム派遣の軍隊を増強し、北ベトナムへの爆撃に踏み切った米国。その米国のベト ナム政策への支持を打ち出した日本政府。それへの抗議から、日本でもいっきにベトナム 反戦運動が広がりをみせる。その中で、佐藤首相の南ベトナム訪問を実力で阻止しようと羽 田空港に全国から集結した反代々木系学生によって引き起こされたのが第一次羽田事件 だが、その直後にも、ベトナム戦争をめぐる事件や出来事が連続的に突発し、日本社会を 揺り動かす。

 その日、都心は騒然としていた。一九六七年(昭和四十二年)十一月十一日。翌十二日に 沖縄返還交渉のための佐藤首相の米国訪問が予定されていたことから、羽田空港でこれを 阻止しようと全国から反代々木系学生約三千人が都内の大学に集結しつつあったからだ。 そればかりでない。革新陣営による訪米反対デモが永田町の首相官邸周辺に波状的に押し 寄せていた。警視庁も街頭に警官を配備するなど警備態勢をしき、都心には緊迫感がただ よっていた。
 私はこの日夕方から、車で法政大学、中央大学、早稲田大学を回った。これらの大学に反 代々木系学生が刻々と集結しつつあったので、その状況をつかむためだった。その日は泊 まり勤務(宿直)だったので、午後九時前に有楽町の本社へ上がった。
 社会部周辺がざわめいていた。首相官邸近くで老人が焼身自殺を図ったという。重体で、 虎の門病院に収容されたとのことだった。とっさに私の脳裏をかすめたのは、南ベトナムで の僧侶の焼身自殺だった。ベトナム戦争が激化するにつれて、南ベトナムでは、米国のベト ナム政策と南ベトナム政府の仏教徒弾圧に抗議して僧侶が焼身死するケースが後を絶た ず、その火焔に包まれた僧侶の映像が日本にも伝えられていたからだ。「ついに日本でも… …」。私は、ベトナム戦争と日本の距離が急に縮まったような衝撃を受けた。

 病院に収容されていた老人は翌十二日午後三時五十五分、死亡した。横浜市保土ヶ谷区 在住の弁理士、由比忠之進さん。七十三歳。死因は気道熱傷閉塞と肺水しゅとされた。
 由比さんは十一日午後五時五十分ごろ、首相官邸前の交差点わきの歩道で、胸にガソリ ンをかけ、マッチで火をつけた。一瞬、全身、炎に包まれ、仰向けに倒れた。通りかかった人 や近くにいた警官が通りがかったタクシーの消火器や官邸備え付けの消火器で消し、近くの 虎の病院に運んだが、頭、顔、胸など上半身に大やけどをしていた。上着は焼けてボロボ ロ。髪はほとんど燃え尽きていた。
 由比さんがもっていたカバンの中には「内閣総理大臣佐藤栄作閣下」とボールペンで書か れた首相あての抗議書があった。そこには、こう書かれていた。
 「佐藤総理に死をもって抗議する。政治資金規正法の答申は尊重すると何度言明されたこ とか。しかるに案が出るや自党の圧力に屈して廃案とし、恬として恥じない首相は、私の如き 一介の庶民が何を訴えても何の効果も期待できないことは百も承知しながらもはやがまんで きない。
 首相の米国行きが迫るにつれ、沖縄、小笠原返還要求の声が小さくなってきた。米国の壁 が厚くて施政権の返還は望めない。できるだけ早期返還の意思表示をとりつけたら成功とな つてしまった。はじめから拒絶を予期する交渉なんて全くのナンセンスである。私は佐藤首 相の第二回東南アジア出発の前に出した抗議書にも書いたが、日本の要求事項をまず決 定し、それに基づいて粘り強く交渉することを要望した。
 またベトナムの問題については米国の北爆拡大に対する非難の声が今や革新陣営だけで なく、国連総会においてもスウェーデン、オランダ、カナダからさえ反対意見が出ているにも かかわらず、首相はあえて南ベトナム訪問を強行したのみでなく、オーストラリアでは北爆支 持を世界に向かって公言された。毎日毎日、新聞や雑誌に掲載される悲惨きわまる南北ベ トナム庶民の姿。いま米軍の使用している新しい兵器の残虐さは原水爆のそれにも劣らな い。ダムダム弾は国際条約によって禁止されているが、それよりもはるかに有力で残忍きわ まるボール弾を発明し実戦に使用、大量殺戮を強行することはとうてい人間の心を持つ者の なし得るところではないのである。
 ベトナム民衆の困苦を救う道は、北爆を米国がまず無条件に停止するほかない。ジョンソ ン大統領と米国に圧力をかける力を持っているのはアジアでは日本だけなのに、圧力をか けるどころか北爆を支持する首相に深い憤りを覚える。私は本日、公邸前で焼身、死わもつ て抗議する。戦争当事国、すなわちベトナム、米国民でもない私が焼身死することは、ある いは物笑いのタネかもしれないが、真の世界平和とベトナムの早期解決を念願する人々が 私の死を無駄にしないことを確信する」
 沖縄返還問題への弱腰と「北爆支持」への、死をもっての抗議であった。

 福岡県前原市の生まれ。東京の蔵前高等工業(現東京工大)電気科を卒業後、電線会社 の従業員、家具屋、放送局勤務などを経て、一九三八年に中国・南満州の紡績会社に入社 する。敗戦後、中国による日本人技術者登用に進んで応じた。一九四九年に引き揚げ、名 古屋で特許事務所を開く。晩年は長男が働く横浜の会社の技術嘱託をしていた。
 エスペランチストであった。それも、わが国では長老格の一人。
 エスペラントは十九世紀末に帝政ロシアの支配下にあったポーランドの眼科医ザメンホフ によって考案された、民族間の差別や対立をなくすための国際語だ。その普及を目指すエス ペラント運動の根底にあるのは諸民族間の平和、すなわちインターナショナリズム(国際主 義)といってよい。
 由比さんがエスペラントを学び始めたのは一九二一年(大正十年)。一九三二年(昭和七 年)には名古屋エスペラント会の創立にも参加。戦後は原水爆禁止運動に加わり、被爆者 の体験記をエスペラント語訳して海外に紹介した。焼身の日直前まで、朝日新聞に連載され た、本多勝一記者のベトナム戦争ルポ『戦場の村』をエスペラント語訳するためにタイプライ ターに向かっていたという。
 日本政府への憤りが焼身抗議という極限の形態にまで登り詰めたのには、米国のアリス・ ハーズ夫人からの影響があったのでは、との見方がある。
 アリス・ハーズ夫人は一九六五年三月、米国のデトロイト市で、ジョンソン大統領のベトナ ム政策に抗議して焼身自殺したエスペランチスト。絶対平和主義で知られるキリスト教の一 派のクエーカー教徒だった。彼女の死後、彼女が生存中、芝田進午・法政大教授にあてた 書簡が同教授の編訳で『われ炎となりて』としてまとめられ、青木書店から刊行された。エス ペランチストの由比さんもこれを読んでいたろう、というわけである。

 由比さんの死は多くの市民に衝撃を与えた。一カ月後の十二月十一日夜には、由比さん を偲ぶ会が、芸術院会員土岐善麿らが発起人となり、東京・三宅坂の社会文化会館で開か れた。エスペラント学会員、政党関係者、一般市民ら五百人が集まった。私はここで、本多 勝一記者からの追悼の言葉を代読した。本多記者が出張か何かの用で参列できず、市民 の立場で参加した私に託したからである。

 しかし、由比さんの「死をもっての抗議」は、人々の記憶から急速に薄れていった。とりわ け、一九七二年に沖縄の本土復帰が実現し、七三年にベトナムで戦火がやむと、由比さん はすっかり忘れ去られた存在となった。
 が、私には、この人のつきつめた思いと行為がなかなか忘れられず、由比さんの三回忌だ ったか、あるいは七回忌だったか忘れたが、一度、横浜市保土ヶ谷の遺族宅を訪ねて行っ たことがある。妻の静さんが、一人で住んでいた。部屋に上げてくださったので、こたつにあ たりながら話をうかがった。静さんがその時何を話したか覚えていないが、終始穏やかで静 かな語り口だったこと、その背の後ろの窓から西日が差し込んでいたことを今でも鮮やかに 覚えている。
 さらに、由比さんの死から二十五年たった一九九二年十月、由比さんの長女、蔵園正枝さ んと話をする機会があった。由比さんを含む三人のエスペランチストについて書くよう月刊誌 『軍縮問題資料』の編集部に勧められ、その取材のために訪れた。蔵園さんは東京・練馬区 に住んでいた。インタビューできたのは短時間だったが、彼女はこう語った。「もうそんなにた ちましたか。父の死が無駄だったとは思いません。父が願っていたベトナム戦争の終結も、 沖縄返還も、結局実現しましたから。父は正義感が強く、弱い者の味方で、そのうえ、いつも 少し先を行っていた。父らしい生き方でした」
 それから、さらに十三年の歳月が流れた。なのに、私には、三十八年前の由比さんの問い かけは今なお光を失っていないのではないか、と思えてならない。
 まず、国連決議がないまま、世界の多くの民衆の声の無視してイラク攻撃を強行したブッシ ュ政権。開戦の根拠とした「大量破壊兵器の存在」が間違いであったことを自ら認めざるを 得なくなったのに、今なお軍隊の駐留を続ける米国政府。それを支持し、自らもイラクへの自 衛隊派遣を続ける日本政府。そして、沖縄には今なお巨大な米軍基地が存在し、基地の撤 去、あるいは縮小を求める沖縄県民の声はいよいよ高い。由比さんが身をもって抗議したこ ろと、状況は基本的に変わっていない、と私には思える。

 近年、由比さんのことを今一度思い起こそうという人たちが現れてきたことは、なんとも心 強い。東海大学出版会発行の雑誌『望星』に二〇〇三年十二月号から三回にわたって「い ま、よみがえる老エスペランチスト由比忠之進の問い」が載った。ジャーナリスト・吉田敏浩氏 のルポで、多くの示唆を受けた。
 また、沖縄在住のジャーナリスト・比嘉康文氏は、ここ数年、由比さんの評伝を書くべく、資 料収集に奔走している。「由比さんは、沖縄にとって忘れられない人だから」という。一日も早 い完成が待たれる。    





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