もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第59回 「ヒロシマの心」再考


広島の原爆ドーム(2005年8月6日、筆者撮す)




 前々回、長田新編『原爆の子』(岩波書店)を紹介する中で「ヒロシマの心」について述べ た。それは、原爆投下がもたらした未曾有の惨劇のさなか、ひん死の重傷下にあってもなお 他人への優しい思いやりを失わなかった人間愛のことだった。
 その「ヒロシマの心」について、もっと述べてみたい。「ヒロシマの心」とは、ひん死の重傷下 にあっても失わなかった他人への思いやりにとどまるものでなく、原爆投下という未曾有の惨 劇が人間にもたらした心情や思考であって、それは極めて多面的な面をもつ。現に、私は、 長年にわたって広島詣でを続けるうちに、マスメディアや広島原爆を語る人々の口々によく 登場する「ヒロシマの心」とは、いったいどういうものかと考えるようになっていった。

 広島・長崎の被爆者からこれまで何回話を聴いただろうか。四十年近くも広島・長崎詣でを 続けてきたから、数え切れないくらいだ。その被爆者の証言だが、いつ聴いても、何度聴い ても粛然とさせられる。私はそのたびに絶句し、深い沈黙に引き込まれる。
 何度も被爆者の証言を聴くうちに、気づいたことがある。それは、おびただしい人々が原爆 で生命を落としたのに自分だけが生き残ったことに、後ろめたさというか、ある種の申し訳な さみたいな気持ちを内心深く抱いている被爆者が少なくないことである。とくに、原爆による 劫火に焼かれてゆく肉親を助けることができず、後ろ髪を引かれる思いでその現場から逃 れ、自分だけが助かったという経験をもつ被爆者にそれが著しいような気がする。

 『原爆の子』にも、広島の街を覆った火焔の中でついに死に行く肉親を見捨てざるをえなか った光景を描いた手記が収録されている。高校三年(当時、小学六年生)の武内健二君は、 家屋の下敷きになった母の最期を次のように書いている。
 「父がようやくはい出てきたが、母の姿がみえないので呼んでみると、つぶれた家の一番下 の方から声がして『タンスに足をはさまれている』というのだ。父と姉が木片をかきわけていく と、タンスの上に大きな柱がたくさん重なりあっていて、びくともしない。父はすぐ姉を大芝公 園に逃がし、近所のおじさんたち四、五人をよびあつめ、丸太をさしこんで柱を動かそうとし たが、微動だにしない。そのうち火勢はどんどんひろがってきて目前にせまり、火の粉が父 のところまでふってきて、いつの間にか父一人になってしまった。その時母は、すき間から手 を出して、
 『わたしはもう助かりません。もうだめ。だからあなたは、どうしても逃げてちょうだい。』
と悲痛な声でいった。その時父は、
 『何をお前はいうのか。お前を捨てて逃げられるか。お前が救われないなら、おれもここで お前と一緒に死ぬ。』
といって、柱を押しあげるべく最後の努力をしていた。すると母は、
 『あなたまで死んでしまったら、後に残る子供がどうなるんです。おねがい。どうか早く逃げ てちょうだい。』と父をさとした。
 そこへ丁度兵隊二十名余りをつれた将校が通りかかった。
 『妻が下敷きになっています。どうか救ってやって下さい。』
と父は地べたにひざまずいてたのんだが、将校は返事一つしないで行きすぎてしまった。もう 火がまわってきて、パチパチと木が焼け落ちる音がする。父は万事休す、死のうと思った。 だが、母の言葉を思いかえし、
 『子供のために、子供のために。』
と号泣しながら、母の許をはなれて行った」

 こうした光景が、被爆直後の広島ではいたるところであった。被爆体験記を読むと、こうし た光景が描写されていて、読むたびに心が痛む。
 肉親を救えなかった人たちは、自分を責める。そればかりでない。長期にわたって自責の 念にさいなまれる。井上ひさしの戯曲『父と暮せば』の主人公は、たった一人の家族だった父 親を広島の原爆で失った図書館勤めの女性だ。女性は、生き残った自分に負い目を感じて いる。図書館を訪れた青年に惹かれるが、「うちは幸せになってはいけんのじゃ」と、心を閉 ざし、恋から身を引こうとする……。二〇〇四年に黒木和雄監督によって映画化されたこの 作品では、宮沢りえがこの女性を好演した。
 肉親を失った深い深い悲しみ。肉親を助けられなかったという自責の念。被爆者はそうし た内面の自己と向き合きあって生きるうちに、こんな心情に到達する。「私のこの悲しみ、苦 しみを他の人々に味わわせたくない」。
 自分の悲しみ、苦しみは自分だけでもう十分。我が子や親しい人をはじめ他のもろもろの 人たちにはこんな悲惨なことは経験させたくない。それには核兵器を二度と使わせてはなら ない。そのためには、核兵器は廃絶されねばならない――被爆者が内面の自己との長い対 話の末に到達するに至った心情とはそういうものだった。原爆を落とした者への憎しみ、恨 みをつのらせ、原爆を落とした者に報復を誓うよりも、原爆そのものをなくそうという精神。こ れが「ヒロシマの心」の神髄ではないか、と私は思うようになった。

 一九五二年(昭和二十七年)から一九七〇年(昭和四十五年)にかけ、広島で、いわゆる 「碑文論争」があった。
 爆心地に近い平和記念公園に「原爆慰霊碑」がある。広島市によって一九五二年に建立さ れたが、そこに「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれている。この碑 文の文案を考えたのは、当時広島大学教授の雑賀忠義で、当時の浜井信三・広島市長が 即決で採用した。
 が、除幕直後から、碑文に対する反対の声が相次いだ。それは、碑文の内容がなんともあ いまいだから改めるべきだという主張であった。つまり「『過ちは繰り返しません』では『過誤 は我にあり』ということになる。これでは何の過ちもない犠牲者は安らかに眠れない。残虐極 まりない原爆を落としたのは米国人である。むしろ、米国の原爆投下責任を追及すべきだ」 というわけだ。これに対し、「碑文は、原爆の惨事を二度と繰り返してはならないという全人類 の願いと決意を表現している」と、碑文を支持する意見も寄せられ、論争が続いた。
 結局、一九七〇年に山田節男市長が「私も世界連邦主義者であり、人類共通の願いを表 した『安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから』の碑文は変えるべきでないと思っ ている」との市長の公式見解を発表、碑文存続が決まった。以後、これが市民の間に定着 し、その後、論争はない。
 ここにも、原爆を落とした者に対して憎しみをかきたて、復讐を誓うよりも、人類の生存とい う普遍的視点から原爆をとらえ、原爆投下という人類の「過ち」を二度と繰り返すまいとする 決意の表明がみられる。「私が経験した悲しみ、苦しみを他の人々に味わわせたくない」とい う被爆者の心情と通い合うものがある。そこに共通するもの、それはヒューマニズムの精神 といえようか。

 二〇〇一年九月十一日に米国で起きた「同時多発テロ」以後、世界は新しい段階を迎えた といわれる。「攻撃には報復を」が米国政府の世界戦略となり、世界各地で米国の軍事行動 が続いている。
 これに対し、広島市は二〇〇三年の「平和宣言」で「『力の支配』は闇、『法の支配』が光で す。『報復』という闇に対して、『他の誰にもこんな思いをさせてはならない』という、被爆者た ちの決意から生まれた『和解』の精神は、人類の行く手を明るく照らす光です」と訴えた。報 復は、報復の連鎖を生む。だから、「報復でなく和解を」というわけである。
 「目には目を、歯には歯を」が行動規範とされる欧米人には、こうした被爆者、広島市民の 発想はなかなか理解しがたいところもあるようだ。しかし、昨今の世界情勢は、これからの世 界は「ヒロシマの心」を基本とする以外に道はないことを明確にしつつあるといっていいだろ う。          





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