もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

  第54回 続・共産党幹部の素顔


40歳の若さで書記局長に選出された不破哲三氏
(1970年7月の日本共産党第11回大会で)=日本
共産党中央委員会発行の「前衛」8月臨時増刊から




 戦後の日本共産党で、宮本顕治氏が党の実権を握るのは、一九五八年(昭和三十三年) の第七回党大会からと見ていいだろう。この大会で、宮本氏は書記長に選出されている。そ のころの共産党では、最高クラスのポストといえば中央委員会議長、書記長だったが、実質 的なトップは書記長だった。三年後の一九六一年の第八回党大会では、宮本書記長の主導 により党綱領が採択され、宮本氏の地位は不動のものとなる。いわゆる「宮本体制」の開始 であった。
 かくして党の実権を握った宮本書記長は、さらなる党勢の拡大・強化をねらって、一九六六 年の第十回党大会で三十代から四十代にかけての若手を重要ポストに抜擢する。今風の言 い方をするならば、さしずめ“宮本チルドレン”ということになろうか。それは、以下のような人 たちだった(肩書きは第十回大会直後のポスト)。

 市川正一・書記局員(労働組合部長代理)、茨木良和・書記局員候補(選挙対策部長)、上 田耕一郎・書記局員候補(「前衛」編集責任者)、金子満広・書記局員候補(統一戦線部長代 理)、諏訪茂・書記局員候補、浜武司・書記局員候補(「赤旗」編集局長代理)、不破哲三・書 記局員候補(中央機関紙編集委員会)、工藤晃・中央委員候補(経済調査部長)

 市川正一・書記局員は旧制工専卒で、国鉄労組出身。選挙対策部長を二期にわたって歴 任するなど、選挙対策のベテラン。腰が低く、だれにも如才がなかった。京都府生まれのせ いか、柔らかい関西弁が印象に残る。
 茨木良和・書記局員候補は旧制大分高商卒。九州や中国、関西で活動していたが、党本 部の選挙対策部へ。市川正一選挙対策部長のもとで副部長をつとめ、地方議会における共 産党進出の立役者と言われていた。
 上田耕一郎・書記局員候補は、東大経済学部時代は学生運動に従事。卒業後は、結核で 療養のあと、東京・中野区の共産党系の地域紙「中野新報」の記者となる。一九五五年の六 全協(第六回全国協議会)後、大月書店から『戦後革命論争史』を出版し、左翼論壇にデビ ューする。これは、実質的に弟の不破哲三氏(本名・上田健二郎)との共著で、左翼論壇で 大いに注目を集めた(もっとも、上田氏はこれを「全体として党活動と党史を清算主義的にみ る誤りをおかした」として、一九六四年の第九回党大会後に絶版措置をとる)。以来、党内外 で理論家として知られるようになり、六四年から党本部勤務となる。第十回大会当時は三十 九歳。
 金子満広・書記局員候補は群馬県の生まれで、国鉄の機関車の機関士をしていた。戦後 に入党し、同県下で活動していたが、一九六一年に党本部の統一戦線部副部長に抜擢され た。
 諏訪茂・書記局員候補は東京都庁に給仕として就職し、都職労の役員をつとめた。あまり 表面に出たがらず、地味な印象を与えたが、事務能力に長けた実務家、との評判だった。 党の庶務的なことをやっているようだった。
 浜武司・書記局員候補は逓信講習所卒。京都の郵便局、大阪の中央電信局に勤務した 後、全逓信従業員組合中央執行委員として活動するが、レッドパージにあう。小柄。まるで 豆タンクのような体躯で、気さくで人なつっこいタイプ。後に東京都委員長。
 不破哲三・書記局員候補は、東大理学部出身。東大では、学生運動にかかわったが、卒 業後は鉄鋼労連の書記をつとめた。その後、理論家としての実績を買われ、党本部勤務と なる。第十回大会で中央委員・書記局員候補に抜擢されるが、その時、三十六歳。若い貴 公子然とした風采で、新聞記者たちは“代々木のプリンス”と評した。「代々木」とは日本共産 党のことで、党本部が国鉄代々木駅の近くにあったことから、新聞記者の間ではそう呼ばれ ていた。山登りが趣味、と聞いた。
 工藤晃・中央委員候補は東大理学部卒。もの静かな学者タイプで、経済通といわれてい た。専ら党の経済政策の立案にあたっていたようで、マスコミに登場することも多かった。
 これらの若手は、その後、党のリーダーへの階段を登る。なかでも不破氏は宮本氏の後継 者としての道を歩む。第十一回大会(一九七〇年)で新設の書記局長(書記長の宮本氏が 幹部会委員長に就任したために新たに設けられた)に選出されるが、その時、四十歳。異例 の昇進だった。当時、共産党担当の新聞記者の間では「宮本氏のインテリ好み・エリート好 み人事」と言われたものだ。第十六回大会(一九八二年)で幹部会委員長。そして、第二十 二回大会(二〇〇〇年)でトップの中央委員会議長に登りつめた。兄の上田氏は幹部会副 委員長に就任。かくて、日本共産党は上田兄弟が実権を握る党となる。兄弟の父はアナキ スト系統の教育評論家。
 金子氏は書記局長、幹部会副委員長を歴任する。

 当時、五十を過ぎていたから若手とは言い難いが、豊田四郎・書記局員候補についても紹 介しておきたい。慶應義塾大学経済学部の助教授(専攻は経済学)を辞し、中央労働学院 講師、民主主義科学者協会評議員などを経て、党本部の宣伝部長となった。宣伝部は共産 党記者クラブの窓口だったから、各社の記者は豊田氏と接する機会が多かった。その誠実 な応対ぶりは記者の間でも評判がよかった。

 ところで、共産党記者クラブができる前の、一九六八年の三月か四月だったと思う。社会 部の遊軍席にいたら、Y部長(この年三月に伊藤牧夫部長の後任として着任)に「岩垂君、ち ょっと」と呼ばれた。部長席に行くと、部長は声をひそめて言った。「君は共産党本部に出入 りしているようだね。警視庁記者クラブの公安担当から、そういう報告が私にあった。気をつ けてもらわないと」
 私は、仰天してしまった。そこで、すかさず説明した。「伊藤部長に共産党も取材するように 言われた。いわば業務命令で出入りしているんです」。部長はそれで納得したようだったが、 私には「公安情報によっても私が担当先をよく回っていることがわかったわけだから、むし ろ、良くやっているなと、ほめてもらいたいくらいだ」との思いが残った。と同時に「警察当局 は共産党本部に出入りする人物を絶えずウオッチしているんだな」と知った。
 そればかりでない。社会部内外で「岩垂は共産党員らしい」とささやかれているのが耳に入 ってきた。世間によくある、事実と異なるうわさ話に尾ひれがついて広がるという風潮は、新 聞社といえども無縁ではない。いや、むしろ、情報伝達を本業とする新聞社の方が、一般社 会よりそうした傾向は強いと言えるかもしれない。いちいち取り合うのもばかばかしいので、 ほおっておいた。

 一九六六年九月にスタートした社会部の「特捜班」は六八年三月に自然消滅した。特捜班 を創設した伊藤部長が退任したためだった。が、特捜班がなくなっても、私は引き続き民主 団体担当で、仕事の内容はそれまでと変わらなかった。





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