もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第53回 共産党幹部の素顔


共産党の幹部。右から袴田里見常任幹部会員、西沢富夫幹部会員、野坂参三議長、
宮本顕治書記長、岡正芳常任幹部会員(1966年の第10回大会で)=日本共産党中央
委員会発行の「前衛」1966年12月臨時増刊号から




 マスメディアに門戸を閉ざしていた日本共産党も、共産党記者クラブが出来たことで、党幹 部もその素顔を次第にマスコミにさらすようになった。

 共産党記者クラブの設立総会は一九六八年(昭和四十三年)五月一日午後四時から、東 京・千駄ヶ谷の共産党本部で行われた。この日が選ばれたのは、この日が第三十九回メー デーにあたったからだと記憶している。
 クラブには新聞、通信、放送二十二社の五十二人が加盟した。総会後、共産党側からの 参加者を交えて設立記念パーティーが開かれた。
 共産党からの参加者は二十三人だった(肩書きはその当時のもの)。
 宮本顕治・書記長、袴田里見・常任幹部会員、岡正芳・常任幹部会員、春日正一・幹部会 員、米原昶・幹部会員、下司順吉・幹部会員候補、藤原隆三・幹部会員候補、市川正一・書 記局員、茨木良和・書記局員候補(選挙対策部長)、上田耕一郎・書記局員候補(第一政策 委員長)、金子満広・書記局員候補(統一戦線部長)、諏訪茂・書記局員候補、豊田四郎・書 記局員候補(宣伝部長)、浜武司・書記局員候補(赤旗編集局長)、不破哲三・書記局員候 補(第一政策委員会副委員長)、宮本太郎・中央委員候補(宣伝部副部長)、松本善明・代 議士、紺野純一・赤旗編集局政治部長、樋口見治・赤旗編集局日曜版編集長、五明英太 郎・国会議員団事務局長、小笠原貞子・婦人部副部長、ほかに宣伝部員ら二人。小笠原貞 子さんは、さしずめ紅一点だった。

 当時の共産党で、党運営の実権を握っていたのは常任幹部会だった。メンバーは、野坂 参三議長、宮本書記長、袴田里見氏、岡正芳氏の四人。
 野坂議長は、新聞記者の間では党の象徴的存在といわれていたから、常任幹部会の実質 的なメンバーは宮本書記長を頂点に、袴田、岡の三氏だったといってよい。その三人が記者 クラブ設立記念パーティーに姿をみせた。共産党が、記者クラブの発足を重視していたこと の表れ、とみていいだろう。
 また、宮本書記長は第十回党大会(一九六六年十月)で、三十代から四十代の若手を積 極的に幹部に登用した。この時、理論・政策面、選挙対策、労働組合対策、他党や他団体と の統一戦線といった重要な部門の要職に新たに登用されたのが、市川正一、茨木良和、上 田耕一郎、金子満広、諏訪茂、浜武司、不破哲三の各氏らだった。
 共産党が、これらの若手のほとんどを記者クラブ設立記念パーティーに出席させたたとこ ろにも、共産党の記者クラブに寄せる期待の大きさを感じさせた。共産党側には、これらの 若手を共産党の次代を担う幹部として報道機関に売り込みたい、という狙いもあったろう。
 一九六九年一月には、東京・代々木の料理屋で共産党記者クラブの一部クラブ員と共産 党幹部との懇親会があった。党側からの出席者は宮本書記長、不破書記局員候補、浜赤 旗編集局長、豊田宣伝部長ら五人だった。

 さて、記者会見や共産党記者クラブとの付き合いを通じてマスコミにその素顔をさらすよう になった同党幹部から受けた印象はどんなものであったか。
 野坂参三議長は、当時、七十代半ば。オールバックのロマンスグレー。わずかに口ひげを はやし、太いフレームの眼鏡をかけていた。ハイカラな慶應ボーイの面影を残した風貌で、 いかにもインテリの紳士という印象を与えた。しかも、身なりはいつもきちっとしていて、「端 正な」という表現がぴったり。終始、穏やかな物腰で、話す時も、静かに、諄々と説くような口 ぶり。「戦前からの共産党の闘士」というイメージからは遠かった。「ああ、この人が、敗戦直 後、中国から帰国したおりに国民から熱狂的な歓迎を受け、さらに、“愛される共産党”を唱 えたことから人気を集めた野坂参三か」。野坂議長を間近に見ることができた私は、そう思 ったものだ。もっとその波乱に満ちた生涯を知ってみたいと思い、自伝の『風雪の歩み』(新 日本出版社刊)を購入して読んだ。
 それだけに、野坂氏が一九九二年に党から除名されたのには心底から驚いた。当時、百 歳。『日本共産党の八十年』には「ソ連解体後、ソ連共産党の秘密資料が公開され、かつて 党指導部にいた野坂参三にかかわる一連の疑惑が報じられました。調査の結果、野坂が、 戦前、コミンテルンで活動していた山本懸蔵らを敵につうじた人物とする立場の告発をおこな って、無法な弾圧に加担したこと、そして、戦後、日本に帰国した後も、ことの真相を隠す工 作までおこなって党と国民をあざむいてきたことがあきらかとなり、野坂もこれらの事実をみ とめました」「ソ連側の資料によって、野坂が日本への帰国にあたってソ連共産党への内通 者となっていたこともあきらかになりました」とある。 
 マスコミに弁明の手記を発表することなく、翌一九九三年に亡くなった。

 宮本書記長の初印象はすでに述べたが、共産党記者クラブ発足のころ、私とともに共産党 を担当していた政治部の記者が、当時、私に語ったことをいまでも覚えている。「日本の政治 家で政治家としての迫力を感ずるのは、佐藤栄作と宮本顕治だな」。宮本氏は当時、六十歳 直前。気力、体力のほか、政治家に不可欠な判断力、洞察力、決断力、情報収集力といっ た面で充実していたということだろう。
 常任任幹部会員の袴田里見氏は、ちょびひげがトレードマークで、色浅黒く、痩身。高小を 卒業後、労働運動に入り、やがて非合法下の共産党の活動へ。宮本書記長とは戦前からの 盟友で、いわゆるスパイ査問事件で宮本書記長とともに逮捕され、敗戦まで獄中にあった。 戦後、共産党が「宮本体制」と呼ばれるようになってからは、実質的にナンバー2の地位にあ って、党内ににらみをきかせてきた。当時、六十代前半。
 その袴田氏が後年、なんと党を除名になったのだから、私は驚いた。一九七八年初頭のこ とである。
 『日本共産党の七十年』(新日本出版社刊)によれば「袴田は、七六年十二月の総選挙直 後の常任幹部会会議で、突然、党と党指導部を攻撃したが、まもなく、規律違反問題が明ら かになってきた。調査過程で、袴田が以前から党にたいする誹謗中傷を無規律におこない、 党中央に反対する同調者をつくる分派活動をおこなっていた事実、さらに重大な規律違反と して、党にかくれて七七年一月、ソ連共産党中央委員会(当時、日本共産党への覇権主義 的干渉の全面中止と両党関係の回復をめぐって緊張した交渉がおこなわれていた)に個人 的使者を送っていた事実などがあきらかとなった。党は古い幹部である袴田に反省の機会 をあたえ、その晩節をまっとうするよう努力をつくしたが、袴田は、党に打撃をくわえようとし て、七七年十二月、ついに反共週刊誌に党を誹謗する“手記”を発表するに至った」という。
 反共週刊誌とは「週刊新潮」のことだ。手記のタイトルは『「昨日の同志」宮本顕治―真実 は一つしかない―』
 袴田氏の言い分はこうだった。「僕はあくまでも正しい党の発展を願っているんだが、党内 では意見を発表する場を奪われてしまった。残された方法は、僕の怒りや反論を公表して一 般党員や働く大衆の判断を仰ぐことしかない」「おととしの十二月の党常任幹部会で僕が発 言した時から、宮本との意見の食い違い決定的に党内で表面化したんだが、あの時、おろさ れても構わないと思って僕は意見を言った」「宮本が『赤旗』拡張一本ヤリであるために、党 員は疲れ切って足が重くなっている。……足が重くなると大衆運動に力が入らなくなる。…… 共産党が依拠しなくてはならない勢力のなかで、われわれへの信頼が減っている、という事 実がある」「今の宮本体制に党内民主主義はありません。僕よりも宮本のほうこそ党規約を 尊重していない。踏みにじっている」(七八年一月十七日付朝日新聞の「わたしの言い分」)
 袴田氏が手記の中で、スパイ査問事件に触れ、「スパイ小畑を殺したのは、宮本である」と 述べたことも反響を呼んだ。スパイ査問事件とは、共産党が非合法時代だった一九三三年 (昭和八年)に、宮本、袴田氏らが小畑達夫ら二人の党員を警察に通じているスパイとして 査問し、小畑が急死した事件。共産党はこれを「内因性の急性心臓死とみられる不幸な急 死」(日本共産党中央委員会『日本共産党の七十年』)としてきたが、袴田氏はこれを否定、 査問の状況を説明して、宮本氏が小畑を殺した、とした。これに対し、共産党側は「彼が病 的に逆上していることを示すだけで、まともにとり上げるほどのものではない」「反共的妄想」 と反論した(一九七八年一月二十六日付「サンケイ」)。
 「赤旗」による袴田批判はすさまじかった。それを読みながら、戦前からの長い盟友関係の 決裂は、共産党の組織原則である「民主集中制」に起因するものか、それとも当事者それぞ れの人間性(個性)によるものなのか、と考え込んでしまった。

 常任幹部会員の岡正芳氏は、当時、健康がすぐれないとかで、党外にあまり顔を出さず、 いわば奥に引きこもった形だった。新聞記者からみると、地味でとっつきにくいタイプだった が、党内では理論や政策立案の面での専門家として評価が高かった。同党が綱領をつくる 時、宮本書記長のもとにあって功績があったとされ、そんなこともあって、新聞記者たちは同 氏を“綱領の番人”と評した。東大在学中から無産運動に入ったというから、活動歴は長い。
 幹部会員の春日正一氏は当時、六十代前半。引き締まった体躯で、色浅黒く白髪。笑顔 はにこやかだが、その風貌は芯の強さを感じさせ、いかにも風雪に耐えてきた老闘士といっ た印象を与えた。それもそのはず、労働者の出身で、戦前の一九二八年の入党、同年の3・ 15事件(共産党への大規模な弾圧事件)で検挙されたという経歴の持ち主だった。
 同じく幹部会員の米原昶氏は物静かな巨漢。おうようとした身のこなしは育ちのよさをうか がわせた。聞くところによると、鳥取県の大地主の御曹司とのことだった。旧制一高在学中 に学生運動を理由に退学処分となる。戦後、共産党の中央委員、書記局員となり、一九五 九年から六一年まで、チェコスロバキアの首都プラハに派遣される。そこで、国際的な共産 主義運動の雑誌『平和と社会主義の諸問題』の編集にあたった。『嘘つきアーニャの真っ赤 な真実』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞するなど大活躍中の作家、エッセイストの米原 万里さんは、長女である。
                                                   





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