もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第49回 民主団体担当となる


現綱領を採択した日本共産党第8回大会。1961年7月、
東京・世田谷区民会館で(日本共産党中央委員会出版局
発行の「写真記録集 日本共産党の60年」から)




 一九六六年(昭和四十一年)九月。定点観測船乗船ルポを書き終わって社会部の遊軍席 でホッとしていると、伊藤牧夫部長が近づいてきて言った。「岩垂君、きみにも特捜班に入っ てもらうから」
 伊藤牧夫氏は私が社会部に来てから四人目の部長だった。この年の七月、社会部次長か ら部長に昇進したばかり。新しく部長ポストについた人はだれでも意欲的な新機軸を打ち出 してみたいらしく、伊藤部長も例外でなかった。その新機軸の一つが「特捜班」の創設だっ た。
 当時の社会部はあらゆる事件、事故、問題に対応できるよう部員を配置していた。つまり、 何が起きても即座に対応できるような態勢を常時、敷いていた。そうした態勢は社会部として 絶対欠かせないものであったが、そのことは半面、特定の問題を重点的かつ徹底的に掘り 下げるという点では薄手、ということでもあった。そこで、伊藤部長としては、少数の遊軍記者 で特別捜査班みたようなグループをつくり、彼らをして特定のテーマを深く掘り下げさせる。 そのことによって社会面をより活発化かつ重厚なものにしたい、と考えたようなのだ。
 伊藤部長は、社内では、遊軍記者時代に底辺労働者が集まる東京・台東区山谷(さんや) の簡易旅館街に泊まり込み、その実情をルポしたことで知られていた。私には、特捜班をつ くって特定のテーマを重点的に掘り下げるという行き方は、いかにも伊藤部長らしい好みに 思われた。
 特捜班のメンバーに指名されたのは遊軍記者五人だった。高木正幸(その後、編集委員。 故人)、角田昌和(同、西部本社通信部長、長崎文化放送会長などを歴任)、中川昇三(同、 社会部長、名古屋本社編集局長などを歴任。故人)、下田尾健(同、アサヒタウンズ社長)の 各記者と私。担当デスクは竹内広・次長。
 それぞれが担当分野をもたされた。高木記者は大学関係、角田記者は人権問題、中川記 者は政界の“黒い霧”事件だったように記憶する。下田尾記者が何を担当したか思い出せな い。私は「民主団体」をカバーするように命じられた。

 「民主団体」。今ではすっかりすたれてしまった言い方だが、当時は、革新系の大衆団体の ことをそう呼んだ。「革新系」という呼称もいまや死語となってしまい、理解できない人も多い にちがいない。となると、「革新系」から説明しなくてはなるまい。
 当時、日本社会党(現在の社民党の前身)、同党と友好関係にあった、労働組合のナショ ナルセンターの総評(日本労働組合総評議会。すでに解散)、日本共産党などをひっくるめ て「革新」、あるいは「革新勢力」「革新陣営」と呼んだ。
 革新の中核は社会党と総評だった。両者をひっくるめて「社会党・総評ブロック」といった。 社会党を人的にも財政的にも支えていたのは総評だったから、社会党は「総評政治部」とさ え言われた。なにしろ、「むかし陸軍、いま総評」とまで言われた総評である。それほど、その 影響力は強大であった。
 その社会党は一九六三年の総選挙では四六七議席中一四四議席を獲得し、衆院で三 〇%の地位を占めた。一方、共産党のこの時の獲得議席は五つだった。
 要するに、こうした社会党、総評、共産党を中心とした勢力の傘下にあった、あるいは友好 的な関係にあった大衆団体を「民主団体」と呼んだのだった。
 具体的には、労働団体、平和運動団体、国際友好団体、学生・青年団体、婦人団体など のうち、革新系とみられる団体をそう呼んだ。当時はまだ「市民団体」という呼称はなく、「市 民団体」の呼称が一般化するのはずっと後のことである。
 ともあれ、このころ、私が足を運ぶことになった「民主団体」は、原水爆禁止日本協議会 (原水協、共産党系)、原水爆禁止日本国民会議(原水禁、社会党・総評系)、核兵器禁止 平和建設国民会議(核禁会議、民社・同盟系)、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団 協)、日本平和委員会、憲法擁護国民連合(護憲連合)、沖縄返還要求国民運動連絡会議 (沖縄連)、日中友好協会、日朝協会、日ソ協会、日ソ親善協会、日本ベトナム友好協会、ベ トナムに平和を!市民連合(ベ平連)、日本アジア・アフリカ連帯委員会、全日本学生自治会 総連合(全学連)など。
 つまり、原水爆禁止、被爆者救援、反戦平和、日米安保条約反対、基地反対、沖縄返還、 憲法擁護、国際連帯などの運動を進める大衆団体の取材を一手に引き受けることになった のだった。

 そればかりでなかった。伊藤部長にこう指示された。「共産党も回るように」と。
 それまで、「朝日」で共産党に関する記事を書いていたのは、専ら警視庁記者クラブ詰め の公安担当記者か、警察庁記者クラブ所属の記者だった。記者が、いわゆる「公安情報」に 基づいて書いていたのだ。これは、「朝日」だけでなく、他の新聞社も似たり寄ったりだったと 思われる。つまり、そのころの新聞界には「共産党担当記者」はいなかったのだ。
 なぜ、こんな不正常なことがまかり通っていたのか。報道側の姿勢にも問題があったが、 戦後の日本共産党の活動の軌跡も影響していたとみていいだろう。
 日本が連合国の占領下にあった一九五〇年(昭和二十五年)一月、コミンフォルム(ヨーロ ッパ各国共産党の情報連絡機関)が戦後の日本共産党の指導理論であった「占領下平和 革命論」(野坂理論)を「マルクス・レーニン主義とは無縁」で「占領者アメリカ帝国主義を賛 美するもの」と非難する論評を発表した。同党政治局はこの論評をめぐって意見が対立。宮 本顕治、志賀義雄氏は論評受け入れを主張したが、徳田球一、野坂参三らはこれに反対 し、結局、多数決で「論評は受け入れがたい」との「所感」を発表。ところが、その後の拡大中 央委員会で論評受け入れを決め、野坂は「自己批判」を発表した。
 対立は、この年六月に連合国軍最高司令官マッカーサーが同党中央委員二十二人全員 を追放したことで決定的になる。徳田、野坂ら主流派(所感派)の中央委員が宮本氏ら反主 流派(国際派)を置き去りにして地下にもぐってしまったからだ。かくして中央委員会は分裂。 これが、いわゆる「五〇年分裂」である。
 分裂のなか、主流派は第五回全国協議会(五全協)を開いて「日本共産党の当面の要求 ――新綱領」(「五一年綱領」)を採択する。それは、当面の革命を「民族解放民主革命」と し、それを「平和の手段によって達成されると考えるのはまちがい」としていた。いわば、暴力 革命唯一論に立ったものだった。こうした極左冒険主義に基づき、主流派は全国各地で火 炎びん闘争を繰り広げる。
 しかし、こうした過激な闘争は国民の反発を買い、一九四九年の総選挙で三十五議席を得 ていた同党は一九五二年の総選挙でいっきに議席ゼロになってしまう。国民から見放された のだ。
 こうした経緯から、同党は分裂以来、ジャーナリズムの上では「取り締まられる団体」に位 置づけられてしまい、同党に関するニュースは、専ら警視庁公安部を担当する記者や警察 庁を担当する記者が書く、といった事態が続くことになってしまったのである。共産党側も新 聞を「ブル新(ブルジョア新聞)」と呼び、相手にしようとしなかった。いや、むしろ、「新聞は権 力の手先」と敵愾心を燃やしていたようだ。

 伊藤社会部長は言った。「共産党もれっきとした政党の一つだ。としたら、ちゃんと正面か らじかに取材すべきで、警察の情報に基づいて書くというのはおかしい」
 伊藤部長がそう思うようになった背景には、共産党の活動に変化があり、部長自身もそれ を感じ取っていたのではないか、と思う。すなわち、分裂から五年後の一九五五年に第六回 全国協議会(六全協)が開かれ、同党は統一を回復する。私が同党をフォローするよう命じ られた時、その六全協から十一年もたっていた。この間、同党は一九五八年の第七回大会 で宮本顕治氏を書記長に選出、六一年の第八回大会では宮本書記長の主導で新綱領を採 択するなど、同党は「宮本体制」を確立していた。すでに紹介したように衆院の議席も五人に 回復していた。
 そんなニュー共産党の取材を私は命じられたのだ。

 ところで、政党といえば、共産党だけに出入りするようになったわけではなかった。東京・三 宅坂にあった社会党の国民運動部もよく訪ねた。また、国鉄浜松町駅近くの大門にあった総 評の国民運動部にも足を運んだ。すでに述べたように、どちらも、革新系の大衆団体と関係 が深かったからである。





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