もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第47回 東京版から遊軍へ


無認可保育所の子どもと保母さんたち(1965年、東京・世田谷区で)




 警視庁記者クラブをお払い箱になった私は一九六五年(昭和四十年)九月に東京版担当 になった。
 当時、朝日新聞朝刊の最終ページは地方版となっていて、東京二十三区に配られる朝刊 の最終ページは「東京版(都心)」といった。東京都政関連のニュースのほか、二十三区内の ニュースを掲載するところだった。都政に関する取材は都庁記者クラブ詰めの記者が担当し ていたが、二十三区内のニュースは東京版担当がフォローすることになっていた。
 東京版担当は四、五人だったような気がする。各人がいくつかの区を分担したが、私は台 東区だけをもたされた。台東区は話題の多い上野、浅草という盛り場をかかえていたから、 台東区だけで一つの取材エリアとなっていた。
 台東区は、社会部員になったとき、最初にやらされたサツまわり(警察まわり)でたびたび 訪れたところだった。こんどは本格的にここを担当することになったわけで、心がはずんだ。
 当時、台東区役所企画室に内山隆羅夫さんという広報主査がいた。区の歴史や区内の事 情に詳しい広報マンで、まさに台東区の生き字引的存在だった。内山さんの勧めにしたがっ て区内のあちこちを訪ね歩き、さまざまな人と出会い、下町情緒を堪能した。
 東京版担当は、自分が担当する区だけをフォローしておればいい、というわけではなかっ た。全都的なテーマを取材するのであったら、どこへ行っても自由だったから、私も台東区以 外の地域へ出かけていった。

 東京版担当中、私が積極的に報道したテーマの一つは「無認可保育所」だった。
 このころは、日本経済が高度な成長を遂げている最中で、働く女性が飛躍的に増加しつつ あった。すなわち、共稼ぎ世帯が急速に増えつつあった時期で、それにつれて保育所の不 足が深刻化しつつあった。保育所に入れない幼児をかかえた働く女性たちは、やむにやま れず自分たちで間借りするなどして保育所をつくり、保母さんを雇い、そこに子どもを預けて 出勤した。いわゆる「無認可保育所」の誕生であった。無認可だから、当然、公的な補助は ない。で、どこも苦しい経営、劣悪な保育環境を余儀なくされていた。そうした苦境を、私は文 京区や世田谷区の例を紹介しながら東京版で訴えた。
 その後、美濃部都政になってから、こうした無認可保育所にもようやく公的な援助措置が 実現する。
 この時期、なぜ無認可保育所だったのか。結婚して子どもができたばかりだったので、若 い母親や幼い子どもが置かれている社会的環境に私の関心が向かったのだろうと今にして 思う。保育所不足に悩む母子に対する同情が、私を突き動かしていたのだ。それに、窮状を 自分たちの力で解決してゆこうという市民の自主的、自立的な試みに何か新しい社会的な 胎動を感じていたのだと思う。「市民の間に芽生えている新しい動きをいち早く伝えてゆくこと は新聞記者の務めの一つ」。記者八年目の私はそう思うようになっていた。

 十カ月の東京版担当の後、一九六六年(昭和四十一年)七月から遊軍になった。
 遊軍とは、特定の記者クラブに属さない、無任所の記者のことだ。何でもこなす、オールラ ウンドの記者といってもよい。もっとも、当時の遊軍記者には二通りあった。まったくフリーの 記者と、何でもこなしながら、同時に特定のテーマを担当する記者だった。どちらの記者も、 社会部として企画した記事や続き物の要員とされていた。
 だれもが遊軍になれたわけではない。サツまわり、各省庁の記者クラブ、東京版担当など を歴任した部員の中から指名された。俗っぽい言い方になるが、遊軍とは社会部のベテラン 記者の集団、と言ってよかった。
 遊軍記者は特定の記者クラブに所属していないから、通常は、社会部に直接出勤した。夕 刊帯は、社会部にいて、出先の記者(記者クラブ詰めの記者や、事件現場に行った記者)が 電話で送ってくる原稿を原稿用紙に書き取る。受けた原稿はデスクに渡す。
 夕刊帯が過ぎると、自分自身の取材のため社外へ。夕方から夜にかけて社会部にあが り、また出先記者からの原稿を受けたり、遊軍仲間で企画の相談をしたり、といった日々だ った。

 私がその一員になった時の遊軍には錚々(そうそう)たる花形記者がいた。疋田桂一郎(す でに故人)、深代惇郎(同)、辰野和男氏といった人びとである。
 三氏はその後、いずれも一面のコラム「天声人語」の筆者(論説委員)となった。このコラム の筆者には、歴代、朝日新聞きっての名文記者が抜擢されるのが慣例だ、と私たち社会部 記者の間で言い伝えられてきたが、私たちの予想通り、三氏は次々とその筆者になった。
 疋田記者の名前を耳にすると、当時、私たち若手の記者はすぐ、ある記事を思い浮かべ たものだ。疋田記者が担当した『新・人国記』の「青森県」の書き出しだ。

  雪の道を角巻きの影がふたつ。
  「どサ」「ゆサ」
  出会いがしらに暗号のような短い会話だ。それで用は足り、女たちは急ぐ。
  みちのくの方言は、ひとつは冬の厳しさに由来するという。心も表情もくちびるまで こわ ばって「あららどちらまで」が「どサ」「ちょっとお湯へ」が「ゆサ」。ぺらぺら、 くちばしだけを操 る漫才みたいなのは、何よりも苦手だ。

 『新・人国記』は一九六二年十月から、全国の朝日新聞で連載された大型企画。各県の多 彩な指導的人物を紹介したものだったが、疋田記者が書いたものは「見事な文章」と社内で も評判になり、名文記者としての地位を不動のものとした。
 さらに、疋田記者の名声を高めたのは『世界名作の旅』だ。これは一九六四年十一月から 朝日新聞日曜版で始まったルポルタージュ。世界的な文学作品の舞台を記者が訪ねるとい う企画で、当時は、一般市民にとってはまだ海外旅行もままならない時代だったから、読者 の共感を呼んだ。
 疋田記者が訪ねたのは、「イーリアス」と「オデュッセイア」(ホメーロス)、「罪と罰」(ドストエ フスキー)、「シベリアの旅」(チェホフ)、「夜間飛行」(サン・テクジュベリ)、「外套」(ゴーゴリ) などの舞台。私は、その端正な文章に魅了された。とくに「夜間飛行」について書いたルポに はしびれた。その書き出しをいまでも覚えている。

 「雨があがった。満月であった。
 午後十一時、双発機がプロペラを回しはじめた。ブルターニュ行DC3機である。続いて南 仏ポー行の四発DC4機が。
 月光に洗われて、ふとい胴体が、にぶ色にひかった。郵便機は、次々に夜空に突入してい った」 

 深代記者も『世界名作の旅』で読者を引きつけた。深代記者が訪ねたのは、「チボー家の 人びと」(マルタン・デュ・ガール)、「風とともに去りぬ」(マーガレット・ミッチェル)、「怒りのぶ どう」(スタインベック)などの舞台だった。その情感豊かで華麗な文章を、私は繰り返し読ん だものだ。なかでも「チボー家の人びと」の書き出しを私はいまでもそらんじている。

 「手にとると、軽い、純白なわた毛だった。プラタナスの実からはじけた綿だと、教えてくれ た人がいた。それが、いつ降り出したのか、無数に、吹雪のように、セーヌの川岸を乱れとん でいた。手のひらにのせ、フッと吹くと、また吹雪の中に帰っていく。その下で、ジュラニウム の花が炎のように、真赤に咲いていた。パリの夏。ジュラニウムのにおい。そのなかを歩き ながら、私は『チボー家の人びと』の主人公、ジャックの青春を思い浮べた」

 深代記者はその後、「天声人語」執筆中の一九七五年、急性骨髄性白血病で急死する。 四十六歳だった。その才能と早世を惜しんで、朝日新聞社は東京・築地本願寺で盛大な葬 儀を営んだ。
 ともあれ、これらの花形記者に社会部にきたばかりの私は畏敬の念を抱いていた。いわ ば、私にとっては、近寄りがたい、まぶしいような存在だった。そんな先輩記者がいる遊軍の 一員になる。「果たしてつとまるだろうか」。私は、不安と、身が引き締まるような緊張感を覚 えた。 





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