もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第41回 ひょうたんから駒が出る


本所署記者クラブ員と懇談する倍賞千恵子さん(その右は筆者)
=1964年10月1日、東京・本所署署長室で




 一九六四年(昭和三十九年)二月から私が担当することになった警視庁第七方面本部管 内(東京の墨田、江東、江戸川、葛飾、足立の五区)は、事件・事故が多発していた地域だっ た。だから、この地域をフォローする本所署記者クラブ(下町記者クラブとも墨東記者会とも いった)には、加盟各社のほとんどがそれぞれ二人の記者を常駐させていた。
 殺人、強盗、かっぱらい、盗み、スリ、脅し、とばく、短銃発射、誘拐、放火、火事、爆発、水 死、自殺、交通事故、ひき逃げ……。事件記者として、ありとあらゆる犯罪や事故に出合っ た。社会の現実とじかに向き合う多忙な日々だった。
 が、一日中、朝から深夜までのべつ幕なしに事件・事故に追いまくられていたわけではな い。時によっては事件・事故のない平穏な日もあった。まして雨降りの日などは、管内の盛り 場や名所に遊びがてらに出かける気にもなれず、狭くて暗い記者クラブで時間をつぶすほか なかった。昼食で短時間外に出ることがあるものの、午前十時からから夜十時までそうやっ て過ごすのは退屈きわまりなく、記者クラブ員は本を読んだり、居眠りをしたり、他社の記者 と麻雀卓を囲んだりして、時を過ごした。クラブにテレビはなかった。

 夏が去り、九月に入ったころだったと思う。その日も事件がなく、クラブ員は暇をもてあまし ていた。とりとめもない雑談にあきたころ、毎日新聞の瀬下恵介記者が叫んだ。
 「倍賞千恵子さんに来てもらおうじゃないか」
 倍賞千恵子さんといえば、当時、新進の若手女優であり、歌手だった。『下町の太陽』とい う歌が大ヒット。彼女主演で映画化もされた。今ふうにいえば、人気上昇中のアイドルといっ てよかった。
 「下町記者クラブとして感謝状を贈ろうじゃないか。彼女、下町の出身でもあるし」と瀬下記 者。クラブ員はみな仰天した。彼の、そのとっぴょうしもない発想というか、思いつきに、であ る。が、「こんなむさくるしい所にくるわけがない」と、だれも相手にしなかった。
 そんな中で、瀬下記者は記者クラブの隅にあった公衆電話に硬貨を入れ続けながら、どこ かに電話をかけた。いったん切ると、またかける。いずれも随分長い電話だった。そして、彼 はついに叫んだのである。
 「おーい、みんな、倍賞千恵子がくるぞ」
 おちょぼ口をして満面笑みをたたえた瀬下記者のその時の表情はいまでも忘れられない。 瀬下記者によれば、松竹本社に電話し、倍賞さんを表彰したいから派遣してくれるよう頼ん だ。相手は最初、難色を示していたが、どうしてもとねばったら、ついに「行かせましょう」と言 ってくれたという。

 「都民の日」の十月一日、彼女は本所署に一人でやってきた。私たちは署長室を借り、彼 女を招き入れた。
 私たちはコーヒーとケーキで彼女と懇談した。感謝状を渡したが、そこには「あなたは、『下 町の太陽』で、下町の良さを全国に知らしめた」といった意味のことが書かれていたと記憶し ている。それに、太陽をかたどったガラスの盆を贈った。それは、何を贈ろうかと思案したあ げく、他のクラブ員と私が、両国駅近くのインテリア専門店の倉庫内を物色中に見つけたも のだった。もちろん、みんなで金を出し合って買った。
 当時、彼女は二十三歳。それはそれは美しかった。「きれいだな。こりゃ、掃きだめに鶴 だ」。クラブ員から、そんな声がもれた。
 彼女自身も驚いたようだ。後にもれ聞いたところでは、本所署を訪ねる前、「わたし、何も 悪いことをしていないのに、どうして警察に行かなくてはならないのかしら」と周囲にもらして いたという。
 本所署記者クラブのこの“壮挙”は、他の警察記者クラブに波紋を広げた。「おれたちは吉 永小百合を招くんだ」などという威勢のいい声が聞こえてきた。しかし、結局、女優さんを招く ことができた警察記者クラブは他には一つもなかった。

 それに、これには後日談がある。九年後、私たちは倍賞千恵子さんと再会することになる。
 すでに本所署記者クラブを去っていた、私たちかつてのクラブメンバーから、「また、倍賞さ んに会いたい」という声が起こり、私たちが、映画『男はつらいよ』シリーズのヒットを祝って、 寅さんの妹さくらを演じていた倍賞さんを招いたのだ。こんどは、すぐ承諾してくれた。私たち は、山田洋次監督、寅さん役の渥美清も一緒に招いた。
 一九七三年十二月十六日、銀座のレストラン「三笠会館」。あの「下町の太陽」娘はいまや 大スターに変身していたが、本所署署長室での初対面で感じさせた庶民的な雰囲気を失っ てはいなかった。この時の楽しいひとときは忘れ難い。
 以来、私は『男はつらいよ』は欠かさず見てきた。スクリーンに「さくら」が登場すると、私は 本所署での、次いで、レストランでの倍賞さんを思い出しては、当時を懐かしみ、心の中で声 援を送った。

 私は、本所署記者クラブでの珍事から一つのことを学んだ。人間、時には、とっぴょうしもな いことを考えてみるものだ。そして、あれこれ思案するだけでなく、思いついたら、失敗を恐 れず果敢に挑戦してみることだ。そしたら、思いがけない道が開けるかもしれない。瀬下記 者の挑戦は、そのことを教えてくれたような気がする。
 瀬下氏は、その後、ニューズウイーク日本版発行人を務め、今は東京・神田にあるマスコミ 人養成塾「ペンの森」の主宰者である。この「ペンの森」も今年で創立十周年。これを祝っ て、七月十六日、ここの在校生と卒業生たちが、瀬下氏を囲んで東京・神田で記念の会を開 く。





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