もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

岩垂 弘(ジャーナリスト)

  第1部 心構え、あるいは心得

 第29回 岩手・忘れ得ぬ人びとA  北山愛郎、鈴木東民、伊藤猛虎


岩手を代表する「三大文化」の一つ、
小岩井農場。岩手山ろくに広がる日
本最大の民間農牧場で、観光名所
でもある(1958年に写す)



 私が朝日新聞盛岡支局に勤務したのは一九五八年から六〇年にかけてだ。そのころの岩手県選 出の衆院議員といえば、自民党が圧倒的に多かった。確か、岩手一区、二区とも定員が四人で、 社会党議員は各区にそれぞれ一人だったように記憶している。
 二区選出の社会党議員が北山愛郎だった。花巻市の木炭商の子に生まれ、東大政治科を卒業し て東京市役所へ。が、中国の魅力にひかれて中国に渡り、日本側の貿易統制機関で働く。敗戦後 引き揚げ、戦後初めての市町村長選挙に社会党から出馬して花巻町長に。一九五三年に社会党代 議士となり、以後、当選十回。理論家、政策通として知られ、政策審議会長を経て党副委員長と なる。八三年に引退。二〇〇二年に死去、九十六歳だった。
 きまじめな人柄。静かな身のこなし。穏やかな話ぶり。それに、偉ぶらないところからか、地 元では人気があった。詰めえりの国民服がトレードマーク。中国の人民服とそっくり、と言われ た。
 社会部記者時代の一九八一年、副委員長の北山にインタビューしたことがある。話が日本の現 状に及ぶと、一転、語気が鋭くなった。
 「今の世の中、金がオールマイティー。政治はもちろん、教育も裁判所も金に蝕まれている。 これでは民主主義でなく金主主義。いまこそ人間を拝金思想から解放しなくてはならない」
 当時に比べ、日本人の拝金思想はいっそう強まり、日本社会を覆い尽くした感が強い。金のた めの殺人、強盗は日常茶飯事。振り込め詐欺なんていうのも横行している。まさに「金がすべ て」の世の中。北山が存命だったら、今の日本をどう評するであろうか。

 一九五八年か五九年だったと思う。岩手県庁内の廊下を歩いていたら、長身でがっしりした体 躯の初老の男性とすれ違った。目鼻立ちがはっきりしていて、彫りも深く、日本人離れをしてい るというか、一見、ヨーロッパふうの風貌である。一緒に歩いていた先輩記者が言った。「鈴木 東民だ。奥さんはドイツ人だよ」。私は思わず振り向いてその後ろ姿を目で追った。なぜなら、 私は新聞記者になる前から、その名を知っていたからだ。
 鈴木東民(すずき・とうみん)。戦後まもなく、日本の新聞界を震撼させた読売争議の立役者 である。
 読売争議とは何か。『戦後史大事典』(三省堂、一九九一年)から引用する。  
 「戦後初期の代表的な労働争議。一九四五年(昭和二〇)九月、読売新聞社の社員有志は、社 内民主化を掲げて争議に入り、一〇月の全従業員大会は正力松太郎社長をはじめ全重役の戦争責 任を追及し退陣を要求した。争議指導者が解雇されたため、従業員側は生産管理に入り、鈴木東 民組合長を責任者として、新聞の自主生産を開始した。一二月に正力がGHQにより戦犯容疑者 とされたため、争議は、社長以下の退社と経営協議会設置など、組合側勝利でいったん妥結し た。翌四六年六月、GHQ新聞課のプレス・コード違反指摘から、編集権をめぐって読売社内で 再び争議が起き、組合長兼編集局長の鈴木ら組合幹部の解雇がなされ、被解雇者の出社には警官 隊が出てこれを強制的に排除した。他企業の支援ストもあったが、結局一〇月に組合幹部の依願 退社・退職で妥結した」
 一八九五年(明治二十八年)、岩手県三陸沿岸の唐丹(とうに)村(現釜石市唐丹町)に生ま れた。東大を卒業後、朝日新聞社に入る。その後、日本電報通信社(現電通)の派遣でドイツに 留学。帰国後、読売新聞の外報部長、論説委員となる。が、横浜事件(太平洋戦争下の一九四二 年に起きた神奈川県特高警察による言論弾圧事件。拷問による死者を出したが、いまでは、でっ ち上げ事件であったことが確定している)に連座し、東京から追放される。戦後、読売新聞に復 職し、読売争議を指導する。 
 読売を追われた後は郷里に帰り、五五年、釜石市長に当選する。六十歳になっていた。その 後、三期十二年、そのポストにあった。私が岩手県庁内で彼とすれちがったのは五八年か五九年 のことだったから、その時、彼は市長一期目か、二期目の初めだったということになる。おそら く、県に陳情にきていたのだろう。
 当時、釜石市といえば、釜石製鉄(富士製鉄釜石製鉄所。その後、日本製鉄と合併して新日本 製鉄釜石製鉄所となる)の城下町といわれた。市長となった鈴木は製鉄所の高炉から出る煙害や 排水を規制するなど、企業による公害の防止に全力投球する一方、教育や商業の振興に取り組ん だ。四期目の市長選で釜石製鉄労組出身の候補に敗れると市議選に立候補してトップ当選を果た す。が、二期目の市議選に落選して釜石を去る。七九年に死去、八十四歳だった。
 私は、盛岡を去っても鈴木の消息が気にかかり、その後も彼にかかわる情報を得るよう努め た。市長選に落選した彼が市議選に打って出、トップ当選したと聞いた時は、七十歳を超えても なお釜石製鉄に対する闘いを続ける彼の執念をみた思いだった。
 世間からすっかり忘れ去られていた鈴木が再びクローズアップされたのは、一九八九年に刊行 された鎌田慧氏の著書『反骨―鈴木東民の生涯』(講談社)によってだ。同書は一九九〇年度新 田次郎賞を受賞した。余談だが、新田次郎は私が出た高校(長野県立諏訪清陵高校)の先輩であ る。

 私の新聞記者生活は三十七年に及ぶが、この間、取材先でもらった名刺は今もすべて手元に保 管している。最初の勤務地、岩手県でもらった名刺の中に「岩手県岩手郡西根村 村長 伊藤猛 虎」というのがある。
 伊藤猛虎。この名前を聞いてもどういう人か知らない人が大半だろう。が、日本共産党の歴史 やゾルゲ事件に詳しい人なら、もしやあの人物では、と思い当たることがあるかもしれない。
 盛岡支局に赴任してまもなくのころだった。支局の先輩記者からだったか、取材先の人からだ ったか記憶があいまいだが、「戦前に伊藤律を取り調べた警視庁の特高・伊藤猛虎が県北で村長 をしている」と聞かされた。伊藤律の名前を知っていたので、その時、私は「へえー」と驚い た。
 伊藤律は戦前の一九三九年、共産党再建活動をしたとして治安維持法違反容疑で逮捕された。 共産党によれば、この時の供述が、ゾルゲ事件発覚のきっかけとなったという。この時の取調官 が警視庁の伊藤猛虎・警部補だったとされる。
 戦後、伊藤律は共産党の政治局員兼書記局員にまで昇進するが、一九五〇年に突然姿を消し、 五三年、「スパイ挑発者」として党から除名される。ところが、八〇年になって、中国で生存し ていることが三十年ぶりに確認され、日本に帰国した。八九年没。
 私が伊藤猛虎に会ったのは盛岡支局勤務中の一九六〇年のことだ。国策によってオーストラリ アやニュージーランドから岩手山麓に導入された「ジャージー種乳牛」に不良牛がある、との情 報で岩手山麓の酪農家を訪ね歩いていて、行政の見解も聞いてみようと西根村役場に立ち寄っ た。その時、村長との名刺交換で手にしたのが「伊藤猛虎」の名刺であった。やや背の低い、み るからに精悍ながっしりした体躯の村長だった。ああこの人が話にきいていた元特高か、と奇し き出会いにいささか興奮したことを覚えている。
 伊藤律の帰国に先だって、私は八〇年八月二十八日付の朝日新聞解説欄に「埋められるか『昭 和史の空白』」「帰国する伊藤律氏に期待」という見出しの記事を書いた。伊藤律個人やゾルゲ 事件をめぐるナゾを明らかにしたつもりだった。原稿を書きながら、二十年前に会った伊藤猛虎 を想い出し、「あの時、伊藤律取り調べについて聞いておけばよかった」と思ったものである。
 なお、一九九三年に刊行された渡部富哉著『偽りの烙印――伊藤律・スパイ説の崩壊――』 (五月書房)は、伊藤律は決してスパイではなかったとしている。





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