もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

岩垂 弘(ジャーナリスト)

  第1部 心構え、あるいは心得

 第13回 岩手県とはどんなところ?  その1 日本のチベット


交通手段に恵まれない辺地では、バスだけが頼り
(1959年、岩手県田野畑村で)



 東京から遠隔の地にあるために、朝日新聞社としては朝刊のみ、それも原稿締め切り時間の早 い「早版」を送らざるをえなかった岩手県とは、いったいどんなところであったのか。そのプロ フィルを紹介しよう。
 
 私が盛岡支局に赴任した一九五八年には、この県は「日本のチベット」と呼ばれていた。広大 なうえ山地が多く、開発が著しく遅れた地域だったから、そう言われていたのだろうと思う。 
 私の目に映った岩手県もそうした見方を裏付けるものだった。とにかく、広い。面積は一五, 二七七平方キロメートル。北海道を除くと、日本一広い県だった。なにしろ、四国四県とほぼ同 じ面積である。外国と比較すると、ベルギーのざっと半分。ベルギー、フランス、ドイツに囲ま れた小さな内陸国ルクセンブルクの六倍の広さだ。
 広大な県域の東部を北上山地、西方の秋田県境を奥羽山脈が走っており、その間の中央部を北 上川が北から南に流れ、宮城県の石巻湾に注ぐ。
 県域の八〇%が山地で、いわば山また山の大県。山はそう高くはないが奥深く、行けども行け ども山塊という感じ。私の郷里の長野県は、山幅は狭いが鋭く尖った山々が屹立するという感じ で(日本アルプスを思い浮かべていただきたい)、長野県とは極めて対照的な山容であった。
 県のほぼ中央に県都・盛岡市があり、そこから北方の県半分を「県北」、南方の県半分を「県 南」といった。「県北」はほとんどが山地だが、「県南」は北上川流域にのびやかな平野が広が る。このあたりは水田が広がり、米の単作地帯だ。
 
 人口は百四十五万人。産業別の就業人口構成比は第一次産業(農林漁業)六二・九%、第二次 産業(鉱工業)一二・六%、第三次産業(自由サービス業)二四・五%。この就業人口構成から も分かるように、主要生産物は農産物で、いわば“農業県”であった。大企業といえば、釜石製 鉄所(釜石市)ぐらいのものだった(その釜鉄も今はない)。
 工業を担う工場が少なく、農業が産業の主軸。その農業も、山地が多いので、畑作のウエート が大きい。が、寒冷地とあって、これといった換金作物も育たず、消費地の大都会も遠い。そん な条件だから、県民所得は低かった。つまり、貧しい県であった。
 一九五八年当時の県民一人あたりの所得は六五,四八〇円(県統計課調べ)で、全国平均の七 二・五%。当時、取材先で出会った人びとは「わが岩手県は、一人あたりの県民所得では鹿児島 県などとともに全国の最下位グループなんですよ」と、自嘲的に話したものだ。  
 
 とりわけ、「なるほど、日本のチベットといわれるわけだ」と私に思わせたのは、交通網の不 備であった。
 なにしろ、交通はバスに頼らざるをえない。鉄道もあるにはあるが、限られた地域を結んでい るだけで、それも山間を通っているため、しばしば土砂崩れで長期にわたって不通となった。そ こで、バスでということになるわけだが、当時、盛岡から県南の太平洋沿岸の大船渡市まで七時 間もかかった。三陸海岸に近い岩泉町までは六時間。県北の久慈市に行くには、いったん青森県 に出て、八戸から八戸線に乗り換えるという遠回りをしなくてはならなかった。まさに行くだけ で一日がかりの行程だった。
  当時、県内で最も僻地といわれていたのは岩泉町と、やはり三陸海岸に近い田野畑村だった。 なにしろ、岩泉町の面積は東京二十三区の約一・五倍。その岩泉町の中でも安家(あっか)、有 芸(うげい)が「僻地中の僻地」といわれていた。
 田野畑村には「思案坂」と「辞職坂」といわれる坂道があった。私が耳にしたところでは、 昔、役人がこの村に赴任しようとして徒歩で役場に向かったが、あまりの遠路と僻地ぶりに、途 中で「往こうか往くまいか」と思案し、ついに「やーめた」と引き返してしまった。そうした故 事にちなんで名付けられたのだという。
 一九五九年二月四日付の岩手版に「玉沢少年の死がきっかけ 分校をつくろう」という見出し の記事が載った。久慈駐在の三船記者が書いたものだが、小学校からの下校途中、吹雪に閉じこ められて死んだ、県北・九戸郡大野村の開拓地の小学六年生、玉沢清美君(十二歳)の死を機に 開拓地に小学校の分校をつくろうという話が進んでいる、という内容だった。玉沢君は小学校ま で片道八キロの道を歩いて通っていたのだ。
 この記事を読んでいたら、目に涙がにじんできた。辺地に暮らす人たち、とくに子どもたちの 苦労を思うと、胸に迫るものがあったからである。当時の僻地の生活ぶりを物語るエピソードの 一つだった。
 
 当時、こうした広大な県を舞台に報道活動に携わっていた朝日新聞記者は十四人だった。盛岡 支局に支局長以下六人。一ノ関、釜石、宮古、北上、水沢の各市に通信局があり、そこに局長が 各一人。それに、大船渡、久慈、福岡(現二戸市)に記者が駐在していた。いわば、十四人の侍 で日本一の大県をカバーしていたのである。





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